小高熹郎と館山の水産業
小高熹郎(おだかとしろう)と館山の水産業
平本 紀久雄(千葉の海と漁業を考える会)
◇はじめに
館山を舞台に日本の近現代漁業を支えた先覚者として代表的な人物は、明治期の関澤明清(あけきよ)、大正・昭和初期の正木清一郎、第二次大戦前後の小高熹郎(としろう)の3氏である。
館山の近代漁業は、1892(明治25)年に関澤明清が館山に居を構え、捕鯨その他の事業を行ったことを嚆矢とし、彼の死後、弟の鏑木(かぶらぎ)余三男がタラ・ラッコ・オットセイの捕獲を対象とした北洋漁業を成功させたが、1911(明治44)年のオットセイ保護条約の締結により終息にいたる。
明治末期から大正期にカツオ釣り漁業・鰹節生産の振興をはかり、全国に先がけて餌イワシ漁業の分業化させた中心人物が正木清一郎である(彼は全国を行脚し、水産翁と呼ばれていた)。当時、館山は焼津とならぶカツオ漁業基地となった。だが、1923(大正12)年9月の関東大震災による火災・倒壊、堤防崩壊・海岸隆起により船形港は完全に破壊され、その後数年間すべての漁業が失業状態に追い込まれた。当時、船形町長だった正木清一郎らの努力で昭和初期に回復したが、館山海軍航空隊建設等、軍事基地化することによって館山の漁業は衰退化していった。
さらに戦中戦後を通じて漁業経営者の立場で漁業復興に尽力したのが、本日話題にする小高熹郎である(敬称省略)。
小高氏は館山市名誉市民・衆議院議員・「里見節」や「南極観測隊の歌」などの作詞家と知られる政治家・文化人であるが、水産業が本業の実業家だった。本日は水産人としての小高の一端を報告する。
とはいえ、私自身小高氏から直接お話を聴いたのはたった2回に過ぎない。たまたま主催者の愛沢さんに「そのときのメモがある」と話したところ、本日の座談会に出るように誘われ、いつの間にか講演するはめになってしまい、「ミイラ取りがミイラになった」思いがする。
ですから、今日が私の小高熹郎研究事始めと思って聴いていただきたい。
◇小高熹郎の略歴(水産関係を中心に)
1902(明治35)年7月館山生まれ。9歳のとき両親が亡くなり、館山で米穀商を営んでいた叔父・小高岩次の養子となる(旧姓、小林、母親の実家は館山病院近くの日蓮宗本蓮寺である)。館山小学校高等科卒業。東京の米雑穀問屋木村商店で4年間修業後、1924(大正13)年館山で米穀卸業となり、1943(昭和18)年まで営業した。1930(昭和5)年千葉県米穀卸同業組合長になった。
戦前:1929(昭和4)年頃、館山港で重油・石油販売業、冷凍製氷業、揚繰網経営を開始した。1940(昭和15)年館山漁業会会長、1940(昭和15)年千葉県県議(2期)、1947(昭和17)年関東鰹まぐろ餌料協同組合長、同年北洋漁業挺身団長などを歴任した。
戦後:1949(昭和24)年衆議院議員(2期)、同年千葉県信用漁連会長、同年全漁連理事、1950(昭和25)年千葉県旋網漁協組合長(初代)、1951(昭和26)年日本旋網漁業協会会長を歴任し、1952(昭和27)年日米加北太平洋漁業条約締結批准国会で代表質問お行い、同年約半年間東南アジア・欧米・南米へ水産資源・漁業実態視察を行い、アルゼンチンではペロン大統領に謁見した。同年文部政務次官となり、1958(昭和33)年紺綬褒章(教育功労)を受けた。1975(昭和50)年第4回日ソ水産増殖合同シンポジウム(タリン市)へ東海大学後援会長として出席、1979(昭和54)年館山市名誉市民に推挙され、1997(平成9)年12月逝去(95歳)した。
◇北洋漁業挺身団長に担がれて
1942(昭和17)年春、千倉の漁民たち数名が訪ねてきて、「千島へ出漁したいので、一役買ってもらいたい」と懇願された。当時、県議・館山漁業会長でもあったので意気に感じて引き受けた。佐藤栄二ら千倉漁民の代表たちと北海道へ出向き、根室漁業会の了承を取り付けた。そのニュースが札幌の北方軍団に伝わり、軍司令官の樋口中将から直々に連絡が入り、「千島へ出漁するなら、北千島の占守島まで足を伸ばし、軍への食糧補給に協力して欲しい」旨、要請を受け、北千島へ行くことにした。
翌1943(昭和18)年4月、総勢36名が小高氏所有の新生丸(20トン、船長兼漁労長・押元真一郎)と千倉の権兵衛丸(13トン、安西孝太郎)2隻に分乗して出港した。団長が小高氏、副団長は佐藤栄二が選ばれた。
4月1日千倉出港、銚子・小名浜・釜石・宮古へ寄港して八戸に入った。4月5日には八戸市長主催で、「明治26年の郡司大尉以来の壮挙」といわれ、盛大な壮行会を開いてもらい、激励を受けた。八戸で歓迎を受けた理由として、翌年八戸の漁船団は北千島へ出漁する計画を立てていた。
佐藤栄二ら先遣隊約10名は函館から汽船で占守(しゅむしゅ)島へ向かった。残る20数名は釧路から軍徴用船高砂丸(60トン)の護衛を受けて、約1週間かけて5月中旬に占守島片岡湾に到着した。
5月21日から一本釣りの操業を開始、タラ・アイナメを中心に漁獲し、漁獲物は占守島・幌(ぱら)莚(むしる)島駐屯部隊に納めた。豊漁だったが時化が多く、漁期も夏(6〜8月)のみに限られた。
北千島出漁に際して用意した漁具は、定置網漁具1式、海獣捕獲用猟銃4丁、タラ延縄1,000鉢(2隻分)、突棒資材(2隻分)、雑魚一本釣資材(2隻分)で、費用は自弁だった。
1943(昭和18)年5月にはアッツ守備隊が玉砕し、戦局は悪化していたが終戦まで空襲はなかった。
1945(昭和20)年8月15日敗戦。同18日未明ソ連軍の攻撃を受けたが、武装解除を行い21日に終結した。
8月21日権兵衛丸(引き揚げ28名)、8月24日新生丸(2名)占守島を脱出、前者は9月5日千倉に、後者は同5日に函館にそれぞれ帰港した。
◇北千島定住協同組合の沿革
1935(昭和10)年頃から、小宮山利三郎・別所次郎蔵の2家族をはじめとして、数次にわたって北海道・東北各県から個人および集団で占守島城ヶ崎および別飛へ定住が始まった。
1937(昭和12)年に小宮山・別所らは北千島移住協同組合を設立し、占守島・幌莚島に定住して農業・畜産・漁業を経営した。
1943(昭和18)年には千葉班26名が新生丸・権兵衛丸2隻で来島し、翌年には八戸班30名が宝漁丸・暢徳丸2隻のトロール船で来島し、それぞれ漁業を行った。当時占守島には陸海軍あわせて2万5000名の軍隊が駐屯しており、漁獲物のほとんどすべては軍隊に納めたという。
千島列島は、1875(明治8)年にロシアと結んだ「樺太・千島交換条約」によって日本の領土となった。千島北端の占守島にはじめて目を向けたのが海軍大尉郡司成(しげ)忠(ただ)(幸田露伴実弟)である。彼は、千島の国防と拓殖を目的とした「報効義会」を組織して、1893(明治26)年と1896(明治29)年の2回に占守島を調査探検した。第2次遠征団員57名の中に別所佐吉(次郎蔵の父)がいた。報効義会が占守島を去った後も北千島拓殖の意志を貫いて残留したのは、別所家族ら14名だった。
1907(明治40)年、日露漁業協約によって千島・カムチャッカ漁場が確立した。1910(明治43)年カムチャッカ・占守島間のタラバガニ漁場発見、翌年ラッコ・オットセイ保護協定されたことにより、それらの猟船がタラ漁船に転じて北千島周辺の北洋漁業が隆盛になった。1914(大正3)年には占守島に本格的なカニ缶詰工場が誕生し、最盛時夏期労働者は3,000人を超えたが、数年でカニ資源は枯渇したという。また、タラ資源も1921(大正10)年には急減した。昭和に入って(1933年頃)、幌莚島東岸にサケマス漁場が発見され、1936〜1938(昭和11〜13)年には年間10万〜21万トン水揚げされた。
◇北洋漁業挺身団に参加した高木勇さんに聴く
高木勇さんは1928(昭和3)年千倉生まれ、現在77歳である。
1944(昭和19)年春、17歳のとき、前年出漁した千葉班とは別行動で北洋漁業挺身団に参加し、根室から八戸班の漁船に乗って幌莚島へ渡った。八戸班のトロール(自分の記憶では暢徳丸、20トンだったと思う)でタラバガニやアブラガレイを獲り、駐屯軍に納めた。操業は夏期(6〜8月)のみ、作業も楽で食糧はじめ物資は豊富だった。翌昭和20年冬に小樽経由で陸路郷里へ戻った。戦時下本土では、サツマイモの蔓まで食べているのに驚いた。
1963(昭和38)年頃、引き揚げ給付金として、債券で2万円もらった記憶がある。
北千島在住中、占守島片岡に別所次郎蔵さんという北千島の自然や気象に明るい人がいた。仕事が暇なときなんどか訪ねたことがある。別所さんは海軍嘱託で中尉待遇といううわさだった。
◇終戦直後、館山漁業会会長小高氏の活躍
終戦直後、館山漁業会長の小高氏は、米駐留軍から旧館山海軍航空隊の建物、館山湾に近接する場所を網干場・漁船投錨・餌料生簀・魚市場・魚倉庫・事務所として、ならびに隣接水域を漁場として使用許可を受けるために積極的に動いた。
1946(昭和21)年2月2日付けで第82軍政中隊館山支部航空少佐E.E.リッグスにより上記の使用が認可された。
また、同年4月には、日本国民食糧(株)・日本製塩会社社長小澤専七郎氏と別紙見取り図に示す貸与契約を結んだ。大格納庫を製塩製氷工場、他の建物を缶詰製造工場として1日につき缶詰15万個、屑から肥料3トンを製造し、工員女500名、男200名を雇う見込みである。なお、この計画が実際どこまで実現したかは不明であり、今後の調査課題である。さらに、実現こそしなかったが、館山市主催の館山市振興委員会水産講習所(現、東京海洋大学の前身)誘致を提言した。
1949(昭和24)年には衆議院議員となり、全漁連理事・千葉県信漁連会長・千葉県旋網漁協初代組合長・日本旋網漁業協会会長(現在の全まきの前身団体)等を歴任した。国会では鈴木善幸・田口長治郎と肩を並べ水産委員会理事として活躍し、1952(昭和27)年には日米加北太平洋漁業条約締結批准国会で代表質問を行った。同年には約6ヶ月かけて世界の水産資源・漁業実態視察のため東南アジア・欧米・南米各国を歴訪した。また、同年には文部政務次官となり、教育行政に尽くした。
◇小高氏のおもな水産業経営
以前は養父の跡を継いで真倉で米穀肥料卸商をしていたが、1929(昭和4)年27歳のころ、館山病院の川名博夫院長から、「これからの房州の産業は水産と畜産だ」という教えに触発されて館山海岸に土地を求めた。
そこで、石油・重油販売および冷凍製氷施設をつくり、親戚筋の田村利平氏(元館山市長田村利男氏の父)に責任者になってもらった。また、そのころ旧西岬村香の揚繰網、三海丸の営業を引き継ぎ「新生丸」とし、旋網経営を始めた(小高漁業部)。さらに、館山水産株式会社を立ちあげ、缶詰製造を始めた。これらの事業は、戦後の1961(昭和36)年まで続けた。
◇旋網新生丸の沖合・伊東久助さん
終戦直後から新生丸に乗り、1951(昭和26)年から1961(昭和36)年の廃業まで沖合(漁労長兼船長)をやった伊東久助さんは2003年に『かもめに誘われて 久翁、海と漁を語る』五曜書房を出版されている。この本に新生丸時代のことが詳しく書かれている。
館山船形の旋網漁業は、1918(大正7)年ごろ餌イワシ採取を目的として全国に先駆けて館山で始まった漁業である。稼働数は昭和初期の1929年には3統に過ぎなかったが、戦後の昭和30年代に最高となり13統になったが、以後南方カツオの開発と共に衰退し、現在は2統に減っているが、本州周辺にカツオが来遊する春・夏・秋に館山の餌イワシを求めてやってくるカツオ漁船は多い。
現在、館山に2統ある餌イワシ漁業の年間売り上げは約5億円あり、現在館山最大の漁業である。また、それに付随する重油販売・餌買いが宿泊する民宿・食料品店の売り上げを加えれば、少なく見積もっても総額7億円になる。この漁業を維持発展させるには、船形港へカツオの水揚げを促進する手だてを講じることである。
◇小高熹郎先生から託された遺言
話の最後に、21年前、赤門病院の鈴木勝先生(故人)ともども直接お話を伺ったさい託された、いわば小高先生の遺言はつぎのとおり。
① 『館山市史』に漁業史のページを入れること
② 関澤明清と正木清一郎の業績を博物館(市立、あるいは安房博)に常設展示すること
③ 北下(ぼっけ)台(だい)の関澤明清顕彰碑や正木燈周辺を公園として整備すること
館山は、漁業を中心に据えて近代化が図られた海辺の街です。したがって、「海辺のまちづくり」を企画されるさい、今でも漁業や魚を抜きにしては考えられないことです。どうか「海あり・漁業がある館山」の姿を頭にインプットして、街づくりに思いを巡らしていただきたいと思います。
かく申す私は、友人が開発した「ひしこ(せぐろいわし)の押し寿司」を全国に向けて宣伝すべく只今発信しているところです。
◇演者補遺
講演した翌日、房日新聞の記事を見た安西孝太郎氏(大正2年4月7日生まれ、現在93歳)が小高資料館に訪ねて来られ、北洋出漁当時の話を直接伺うことができた。
また、その後、千倉の安西氏宅を訪ね、再度直接当時の話を伺った。以下はその概略である。
新生丸(19トン)の船頭は安西孝太郎さん、機関長は磯辺稲次郎さん。権兵衛丸(17トン、船主は千倉の渡辺太郎さん)の船頭は庄司嘉吉さん、機関長は高木清さんだった。小高先生の著書の記述は間違い、押元眞一郎さんは陸勤めだったはず。
釧路から2隻の徴用船に曳航されて占守島へ向かった。千葉班の漁業は一本釣りのみで、北千島は時化が多く大した漁はできなかった。初年度の漁期は5月20日から8月中旬まで。漁期後、現地で船を陸揚げ、体だけ千倉へ帰って来た。自分は翌年招集され、満洲へ渡った。翌年は千倉から4人ぐらい、北千島へ渡ったと聞いている。
現地に定住していたのは、別所氏と小宮山氏ら一部で、他の人は夏のみ季節移住していた。
昭和18年の乗組員は、新生丸17,8名、権兵衛丸14,5名だったと記憶している。給料は千倉へ帰ってから何百円か貰った。安西さんは翌19年軍から徴兵され、満洲へ渡った。終戦後、捕虜生活を送って、昭和21年に錦(きん)成(せい)から帰って来た。
終戦直後、渡辺太郎さんと山口常太郎さんの2人は現地から漁船(権兵衛丸ではないようだ)を操って、千倉まで直接帰ってきたと聞いている。
安西孝太郎さんは戦後60年、千倉のサバ・サンマ漁船に乗り、漁業一筋の半生を送り、現在93歳である。
2006年9月9日午後1時30分〜(県立安房博物館)
小高記念館・たてやま海辺のまちかど博物館オープニングイベント