館山の自然と漁業、そして戦争と平和
館山の自然と漁業、そして戦争と平和
平本 紀久雄
◇はじめに 私の戦中・戦後の体験
先日、館山市で開かれた「安房反核フェスティバル」という催しで幼児期の戦争体験を話せと云われて、私はこんな内容の話をしました。
私は1940(昭和15)年1月生まれの69歳、あと半年後に古希を迎えます。商売柄、永年イワシを食べ続けていたせいか、皆から「若い」と云われます。
昭和15年は第2次大戦がはじまる前年でして、国中が皇紀2600年の祝賀で見かけは繁栄していました。
12年前に死んだ親父の遺品のトランクの中から、私たち兄弟の通信簿が出てきました。通信簿には成績表のほかに身体検査の記録が載っているので、私のこども時代の成長を知ることができます。
現在私は身長176cmありますので、歳にしては大男の部類に入りますが、こどものころは小さかったのです。身長を例にとると、小1で109.5cm、小6で137.6cm、中3で154.7cmです。
数年前、「こども聖書会」で付き合っている中学生と背比べをしたら、男子で169〜176cm、女子で159〜162cmで、敗戦直後の私はいかに栄養状態がわるかったかが想像できると思います。
戦後は食糧難で、とりわけ砂糖のない時代でして、甘いものに飢えていましたので、人工甘味料のズルチンやサッカリン云うに及ばず、ミツバチに刺されながら尻尾をちぎって蜜を吸うことまでやっていました。ぼくの子ども時代は、甘いもの、イコール美味いものでした。その反動で、早食い・大食い・甘党・脂身好きの癖がついてしまい、自分でも食い意地がきたないと思っています。
(1)館山の自然
2億5000万年までは日本全体が海でしたが、中生代のジュラ紀(1億数千万年前)になって、一時銚子付近が島になりました。銚子半島が房総でもっとも古く陸地になった場所です。
約1500万年前(第三紀の中新世の中ごろ)に丹沢造山運動が起こり、房総南部から三浦、丹沢にかけて東西に延びる嶺岡隆起帯という陸地ができました。
さらに数百万年前になって鋸山ができ、数十万年前には鹿島灘や九十九里浜に口が開いた古東京湾ができ、数万年前に富士火山の降灰の堆積によって関東ローム層がつくられました。
数千年前(沖積世)の南房総の気温は現在の沖縄並みの暖かい気候でしたので、現在よりも海面が10〜15m高く、沿岸域には沼のサンゴ礁に代表される造礁サンゴが広くひろがっていました。海が後退した今では、もっとも新しく平野になった大部分は、現在水田や低湿地になっています。
地球温暖化によってこの先どう変わっていくのか、不安半分興味半分といったところです。皆さんはどう思われますか?
千葉県は日本のほぼ中央にあり、三方が海で囲まれていて、茨城県に接する北のみが関東平野につながっています。気候は年平均15℃内外で、国内ではやや暖かい地方に入り、雨量は年平均1200〜2200ミリで、ふつうか少し下まわる程度です。雨量がさほど多くないのは県内に高い山がないからでしょうか。
海岸地帯は夏と冬の気温差が少ない海洋性気候を示しています。太平洋岸を北上する暖かい黒潮は房総半島沖にたっしてから北の銚子沖付近から東へそれていき、一方、三陸沖から南下する親潮は銚子沖まで達することが多く、この2つの海流が房総付近で接することが、房総の気象や生物の分布などに大きな影響を与えているのです。
(2)かつて遠洋漁業基地だった館山
私が専門にしていた回遊魚の多くは、秋から冬にかけて東北沖から南下回遊してくるマイワシ・カタクチイワシ・マサバ・サンマ・ブリ、また春から夏にかけて北上回遊するカツオ・マアジなど、房総沖は多獲性回遊魚の日本最大の回遊路です。したがって、銚子港は日本を代表する漁港になっているのです。
また、千葉県沖の深海には北洋起源の寒海性の生物、イバラガニモドキやベニズワイガニなどが生息し、年によってはスケトウダラが漁獲されることもあるのです。
館山は明治時代、西の下関とならぶわが国を代表する遠洋漁業基地でした。明治期には、ここから北洋へオットセイを捕りに行っていたのです。明治40年(1907)のオットセイ条約によって全面禁漁になり、タラ漁に転換しましたが、館山の遠洋漁業はしだいに衰退していきます。
明治末には房州布良ではマグロはえ縄漁が栄え、さらに大正時代に入って館山ではカツオ一本釣り漁業が発展し、静岡県焼津とならぶカツオ漁業の中心地となっていきます。
ところが、大正12年(1923)9月1日に関東大震災で突如起こり、地震と火災で町並みは完全に破壊され、土地の隆起で漁港は10年近く使えなくなってしまいました。
ちょうどそのころ、明治以降、脱亜入欧を旗印に文明開化と富国強兵を進めてきたわが国には昭和初期になって軍国主義が急速に台頭し、欧米列強を敵視した国防意識が急速に高まっていきます。そして南房総は館山を中心にして、わが国最初の海軍基地・横須賀と連動して首都をまもる軍事基地として急速に発展していきます。
「館山の遠洋・沖合漁業は、関東大震災という天災と軍国主義の台頭という人災のダブルパンチをうけて破壊されてしまった」のです。
(3)館山の戦争遺跡
1916(大正5)年に対岸の横須賀に海軍航空隊がつくられて以来、航空兵力の増強に力が入れられ、全国に航空基地がつくられていきました。東京湾の入口にある館山は首都東京をまもる重要要塞地帯として秘密裏に多くの軍事施設がつくられていきました。関東大震災で隆起した宮城海岸と遠浅になった高島、沖ノ島を結ぶ浅瀬を3年がかりで埋め立て、1930(昭和5)年横須賀・佐世保・霞ヶ浦・大村に次ぎ、全国5番目の館山海軍航空隊(以後、単に「館空」という)がつくられました。
当地は冬から春にかけてつよい西風が吹きますので、航空母艦の短い甲板から飛び立つハードな離着陸訓練には最適でした。それ以来、陸の空母といわれた「館空」で離着陸操縦の実践的な訓練を受けたパイロットたちが、日米開戦の口火を切ったハワイ真珠湾攻撃に参加したと云われています。
また、1937(昭和12)年の盧溝橋事件を契機にはじまった日中戦争でも館空で訓練を受けた木更津航空隊所属部隊が中国の都市を無差別攻撃(渡洋攻撃)し、泥沼化していったのです。「館空」は中国大陸侵略の航空攻略の重要拠点であったのです。
1932(昭和7)年の大房岬砲台や洲崎第1砲台の竣工、1941(昭和16)年の館山海軍砲術学校開校、1943(昭和18)年の洲ノ埼海軍航空隊の開隊など、館山市周辺すべてが軍事基地化されていきました。
戦争末期、最重要基地となった房総半島には7万人近い軍隊が配備され、米軍を迎え撃つ態勢を整えていきました。つまり、当時の政府首脳や軍部は鋸山を最後の抵抗拠点として第2の沖縄戦を想定していたのです。
本土決戦が必至となると、館空基地周辺には次々と軍事施設がつくられていきました。皆さんが午後に見学する赤山地下壕跡・戦闘機用掩体壕跡・射撃場跡・128高地戦闘指揮所跡地下壕(かにた婦人の村)などがその一部なのです。これらの建設には兵士はもとより、住民や学生の勤労動員や朝鮮人の強制労働などで突貫工事が続けられていく中で、敗戦を迎えました。
当時基地であった敷地の大部分は現在、海上自衛隊館山航空隊基地となり、周辺地域には様々な戦争の爪痕(遺跡)を見ることができます。しかし、当時の朝鮮人の強制労働の実態など、具体的な歴史の掘り起こしはほとんど調べられてはいません。
おわりに 平和をつくりだす国に
先日、ある館山で開かれたある政治集会で「かにた婦人の村」の天羽道子施設長が次のような挨拶をされました。大変意味深いお話でしたので、皆さんに紹介したいと思います(たぶん午後に、天羽さんから直接この話をお聴きになるかも知れませんが)。
「挨拶の依頼を受け躊躇いたしましたが、社会福祉にたずさわる庶民の一人として、戦中を生きてきた者として、日ごろ、現在の社会にたいへん危惧を抱いておりました。ことに政治の流れが変わらねばならないと思っておりましたので、お断りすることなくお受けしました。
二つのことをお話したいと思います。一つは平和のことです。戦争は絶対に放棄しなければなりません。憲法九条に定められていることですが、これがあやしくなってきています。どうしても声をあげていかなければならないと思っています。
お集まりのみなさまの中にも、「かにた婦人の村」をご存じの方もおられると思いますが、国有地を払い下げていただいた施設の中に戦跡の地下壕があり、また、敷地内の丘の頂きには「従軍慰安婦の碑」が建てられたこともあり、平和を発信していかなければならないと思っています。
先の戦争で、日本は害を受けたこともありますが、他国へ害を加えもしました。被害と加害の両面を経験しました。今もなおその負の歴史を負い続けています。殊に日本の過ちのために、他国で苦しんでいらっしゃる方々がおり、日本でも被害を受け苦しんでおられる方々もいます。その痛みを共有し、記憶していかなければならないと申し上げたいのです。
もう一点は、「品格」という言葉がはやっていますが、「国の品格」「国の在りよう」はどうあらねばならないのか、ということです。今日の社会を見て、人間が見捨てられている、とくに弱い立場の人たちがモノのように扱われている現状に痛みを感じています。
平和を大切にし、自然も動物も草木も、すべての命を大切にする国として、世界に誇れる国になってもらいたい、と思います。
その国をつくるのは誰でしょうか。私たちが選ぶ政治をつかさどる人たちにゆだねる部分が多いでしょう。でもその人たちを選ぶのは、私たち一人ひとりです。世界に誇れる国になるように、みなさまといっしょに念願して、挨拶とさせていただきます。」
日本を代表する思想家の内村鑑三は、その著『ロマ書の研究』で、「だれが生きとし生けるものに苦しみを与えているか?」という問いに対して、「それは人間だ。神をないがしろにした人間の罪だ。人間の堕落によって自然が破壊されたのだ。自然を生かすも殺すも人間次第だ」と。そして、『人死して天然もまた死し、人生きて天然もまた生きる』と云っています。
天羽さんのメッセージにもありますように、私たち日本人の一人ひとりが「平和を愛し、人間を愛し、すべての生きとし生けるものの命を愛する品格ある人になってもらいたい」と思います。
戦争に勝る人間破壊・自然破壊はありません。私たちは今後2度とふたたび戦争を起こす国にならないよう学ばなければなりません。平和をつくりだすために、発信していかければならないと思います。
2009年7月31日(金)10:45〜(たてやま夕日海岸ホテル)
2009年度関東地区中高YWCAカンファレンス講演資料