地域に根ざす歴史教育と文化財保存運動≪1998年度千葉歴史学会研究報告「歴史教育」≫

地域に根ざす歴史教育と文化財保存運動

愛沢伸雄≪1998年度千葉歴史学会研究報告「歴史教育」≫

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【1】はじめに

いまからちょうど2年前、15世紀後半里見氏が安房国を平定した頃の本城といわれる稲村城が、行政当局の手で破壊されようとしていました。安房地域は市民運動など育たないといわれていた保守的な政治風土をもっていますが、「貴重な文化財を守れ」と市民や教師たちが保存と史跡化をもとめ立ち上がりました。

危機的な状況もありましたが、千葉歴史学会の研究者の皆さん、特に中世史部会の滝川恒昭氏、また遠山成一氏を中心とする千葉城郭研究会の皆さんをはじめ、全国の歴史関係学会から支援をうけつつ、その危機を乗り越えながら市民が主体となった文化財保存運動を進めてまいりました。

その際念頭にあったことは、地域に根ざした市民運動を実現するために、地域文化の保存と再生の視点に立った文化活動をどう展開していくかということでした。当初は、目前に迫った建設工事をストップさせる緊急で政治的な運動が求められましたので、手段としては一般的な署名や請願書の活動によって広く訴えながら、市当局や市議会に再考を願う運動を起こしていったわけです。

「請願書」の審議は、1年半にわたり7度審査がおこなわれ、昨年末の文教民生委員会でとうとう全員一致での採択が、そして本会議でも、念願の全会一致での採択となりました。それは地道に取り組んできた市民による文化活動が、地域に根を張るなか、稲村城跡が貴重な文化財としての認識が深まり、市議会のなかに市民の保存運動を認知せざるを得ない状況がつくりだされたからといえます。

ところで、この運動では市民自らが地域学習をしながら、創意工夫した文化活動を進めてきましたが、その間、支援していただいた研究者による里見氏研究の新たな展開もあったことで、安房の歴史的文化的環境への認識を深め、豊かな地域史研究につながるきっかけを得ました。

この2年間、地域に根ざした文化活動をすすめるにあたって、実はそのベースに、「戦後50年」に関わる市民による安房地域の戦争「掘り起こし」の平和運動があったということです。その取り組みのなかで、地域を見る目が鍛えられ、その後の稲村城跡保存運動に参加した市民も少なくありません。「掘り起こし」などの地域に根ざした歴史教育の場で生み出されたエネルギーが、保存運動における地域文化の保存・再生の文化運動を支えたばかりでなく、保守的な地域社会を変容させる市民運動の原動力になっていったということです。

ここ数年取り組んできた安房地域の「掘り起こし」を振り返りながら、地域に根ざした地域研究や歴史教育の役割を考察するとともに、今回、市民が主体となってすすめてきた文化財保存運動の意義を簡単に報告したします。

 

【2】地域に根ざす地域研究や歴史教育の取り組み〜市民による「戦後50年・平和を考える集い」活動

まず、地域に根ざした地域研究や歴史教育の取り組みのひとつとして、「戦後50年」に関わる市民による安房地域の戦争「掘り起こし」運動の経緯とそこでの意義について簡単にお話します。

93年10月「学徒出陣50周年」に関わる平和展を開催した際、次は「戦後50年」の節目に、地域から戦争を語り継ぐ機会をつくろうということになりました。私は翌年10月に広く市民に呼びかけ、安房の歴史教育者協議会会員と高校教師を中心に、160余名の安房郡市民によって「戦後50年・平和を考える集い」実行委員会を結成しました。この活動では、アジア太平洋戦争で安房地域がはたした役割や、戦争下の人々の生活を浮き彫りにしながら、地域から戦争に関わる様々な証言を聞き取る作業などを実施しました。

そのなかで「戦争に関していろいろな認識があると思う。この50年間を考えると戦争のことを語るのは仲間のなかだけで、世代の断絶も感じながら、口をつぐんでいた。やはり戦争の体験者として戦争の事実を客観的に正しく知ってほしい。そのために、できるだけ資料提供などの協力をしたい」とか、「地元でも知らないことがある。まず地域を掘り起こして、歴史的事実を積み上げていくこと」や「正確な地域の歴史を調べる。当時の体験者が高齢になり、戦友会などの集まりが消えつつあることを考えると、今とくに戦時中の記録を残し」ていくことが重要と語られました。

活動の経緯をお話しますと、まず安房地域の戦跡を確認するためにフィールドワークを2回実施するとともに、調査研究・学習会として、延べ400余名参加により4回の「戦後50年を考える」講座を開催し、参加された皆さんから貴重な証言や資料を得ながら、地域に根ざした広がりのある調査活動を展開していきました。なかでも「呼びかけを新聞で知り、戦争のことを子供たちに伝えるという主旨であったので連絡をとった。戦後50年という機会に、自分のたどった経緯を話せたことは大変良かった」「この集まりを新聞で知って連絡をとった。このことがこんな大きなものになるとは思わなかった。先生方といっしょにやれたことが大変うれしかった」という感想が寄せられたように、実行委員会に参加した市民たちは、教師たちと共同して地域研究に取り組む、市民による歴史教育の場に、今までにない新鮮な姿を感じたようです。

教師を中心とした調査研究チームでは、「学校と戦争」などのテーマを短期間ですが、かなり集中的に取り組み「集い」での企画展の資料発表をめざしました。このような活動のなかで、行政側も一定の理解を示し、館山市教育委員会から後援を得たことは、市の広報誌で「戦後50年」の特集や取り組みが紹介される機会をつくり、市民に呼びかけを広げるうえで大きな効果をあげました。

そしてメインに8月の3日間、「戦後50年・平和を考える集い」を開催し、お盆という忙しい時期にもかかわらず、1000余名の地域に住む市民たちが参加する手作りの平和創造の集いを実施しました。1年近くの活動なかに参加してきた市民たちが、さまざまな資料や証言を掘り起こし、安房地域での戦跡・戦争史を伝える機会になっただけでも大成功であったと思っています。全国紙の地域版で、この間の貴重な「掘り起こし」や取り組みが報道されたり、とくに地元房日新聞に掲載された「安房からみる戦後50年」と題する27回連載の調査研究の反響は大きく、「掘り起こし」が歴史的事実としてどうであったか、地域の人々による検証の場になりました。

ところで、このように「戦後50年」に関わり地域のマスコミとの信頼関係を作り上げていったことは、その後の保存運動のなかで、私たちの立場を考慮して良識ある報道がなされたり、ときには市民運動に対して激励をいただいたり、何よりも読者に保存運動の意味を知らせるうえで、極めて重要な役割を果たしてくれました。

この「集い」がもたらした地域での余波を上げますと、11月に「非核平和」宣言を決議した三芳村当局から「安房の戦跡をさぐる」展を開催したいので協力してほしいとの要請があり、10日間でしたが村の有線放送が広報活動を徹底したのか、人口6000名のうち3000名以上の見学者があったことには驚きました。翌年8月には白浜町当局からも依頼され「安房の戦跡」展が開催されるなど、今までになく行政当局と結んだ平和運動の取り組みが展開できたことは、安房地域にとっては画期的なことでした。つまり、市民が主体となって取り組んでいる活動には行政当局も一定の評価をし、行政側も市民サイドにあることを強調する機会として捉えていたようです。

このように「戦後50年」という節目に、従来とは一風変わった平和運動を生み出すことができたのも、教師が学校という枠を飛び出し、地域の人々と共同で地域学習を積み上げてきたからではないかと思います。とくに「東京湾要塞地帯」のなかで形づくられた保守的な政治風土は、戦後も脈々と続き、依然として戦争に関わる証言を得るうえで、地域の人々の口は重いといえます。しかし、市民たちが地域学習をしながら、教師らと共同して聞き取り調査や、資料研究をすすめていったことに大きな意義がありました。

しかも「集い」のなかで、証言や調査の発表の機会をつくったことが、参加してきた年輩の人々を生き生き活動させるきっかけになったと思っています。従来保守的な地域を支えてきた市民自らが、市民による歴史教育を実践したことで、この地域にはなかった運動を生み出し、保守的な地域に一石を投じることになったのではないでしょうか。つまり、地域の人々と歴史学習しながら平和運動を進めていったことが、結局は主体的な平和創造の運動につながる近道になったといえます。その教訓がその後、市民による地域の文化財保存運動に活かされたのは、言うまでもありません。

 

【3】学校と地域とを結ぶ 〜教師の役割と「地域づくり」

では、「戦後50年」に関わる地域の平和運動を通じて、「地域に根ざす」ということがどんな意味をもっていたかを教師の立場から見てみますと、それは地域の人々の声を活かすために、教師自らが地域に出かけるとともに、学校が地域の文化センターとしての役割を果たすということが求められていたように思います。そして、地域の人々がともに学びながら、地域文化を共通の財産として守っていく実践的な姿勢こそが、「地域に根ざす」ということであると学びました。

かって館山市で開かれた千葉県歴史教育者協議会安房集会では、「安房という地域を見直す、何のたたかいもないとか、保守的でダメだと頭から決めてかかってはいけない。どんな地域にも、かくれた民衆のドロくさいたたかいがある」と語られたといいます。そのなかで住民運動やフィールドワークによって、地域と教師とが結びつくことで、地域をみる目がきたえられ、地域をみる目によって歴史をみる視野がより一層広がり、生き生きした授業のきっかけになった歴史教育の実践も報告されたといいます。

そこには、今でも学ぶべき姿勢があります。地域の人々の生活や文化を踏まえて、要求やたたかいを歴史教育の視点からとらえ直し、地域の「掘りおこし」をすすめることの重要性を指摘しているからです。つまり、地域の歴史と深く結びついている暮らしや平和、教育の問題を教材化し、子供たちに提供していくことは、地域に生きる教師の重要な役割というのです。教師には地域に飛び出て、地域の人々と共同して地域を学び、地域のさまざまな課題に取り組むことが求められている時かもしれません。今後、地域の平和運動が常に子供たちの歴史教育に関わりながら、広く市民に定着していくためにも、「戦後50年」に関わり安房地域で掘り起こされ、そして明らかになってきた「戦争遺跡」が貴重な文化財として認知されていくことが重要ではないかと思っていました。

ところで、地域「開発」のなかで、次々と戦跡が破壊されている現状を早く何とかしなくてはと考えていた矢先に、道路建設による「稲村城跡」破壊のことが耳に入りました。文化財を守るべき立場にある行政当局が、地域振興のためには貴重な文化財といえども破壊するという姿勢に、私は憤慨しました。館山市は、対外的には里見氏の歴史や「南総里見八犬伝」を看板にしています。その里見氏の文化財ひとつ守らない偽りの文化行政ならば、負の遺産である「戦争遺跡」を保存し、文化財として認定することは、極めて難しいと感じられました。

いずれにせよ、安房地域の歴史や文化を色濃く残す文化財が、市民や学校、あるいは地域社会全体にどんな意味があるか、歴史教育の視点からとらえ直すことが求められたともいえます。保守的な政治風土のなかにあっても、地域の人々はさまざまな問題を解決してほしいという願いばかりでなく、地域の人々の要求を基礎に、地域を変えていく「地域づくり」も願っているはずです。

その「地域づくり」には、学校と地域とが結ばれながら、地域の市民たちが主体的となって、地域に刻まれいる歴史を記録し分析していく地域の学習活動や、その歴史を語り伝えていく歴史教育としての実践活動、さらには歴史と文化が豊かに活きる地域をつくっていく実践運動などを踏まえながら取り組んでいくことが必要なのです。それなしには地域社会の歴史や文化が、いわゆる「開発」によって、次々と破壊されていくことを見過ごしてしまうことになるのです。

 

【4】稲村城跡保存運動から見えるもの

いままで述べました経緯のなかで、稲村城跡保存運動がはじまりました。その発端からお話しますと、この問題を知った里見氏研究者である地元館山市出身の滝川氏や、県内の中世城郭を調査研究している遠山氏ら千葉城郭研究会の研究者の皆さんの強い危機意識がまずありました。当然、研究者としての良心が「開発」優先の市政と対立することになります。とくに滝川氏は、館山市文化財審議会委員という公的な立場があるにもかかわらず、「稲村城跡の保存」という勇気ある発言を貫ぬき、研究者の立場から当初より強力な支援をいただきました。滝川氏をはじめとする研究者・専門家なくして、この保存運動はありえませんでした。

里見氏の「稲村城」とはいっても、地元稲地区以外では、ほとんど市民に知られていないという現実がありました。「稲村城」が安房の歴史上どんな役割を果たし、どのような歴史的価値があるかを私自身も恥ずかしながら、ほとんど知りませんでした。結局私も、保存運動のなかの文化活動を通じて学んだ訳です。

ところで、かつて千葉県教育委員会は、重要な中世城郭遺構として「稲村城」を調査しました。県当局にとっては当然、その調査報告書が活かされると思っていたはずです。内容から市当局も「周知の遺跡」と確認していたにもかかわらず、発掘時に「なにも遺物がなかった」という結果のみをみて、文化財保護法の趣旨が全く活かされぬまま、市当局自身によって稲村城跡破壊という形をとる工業団地進入路計画案がつくられました。議会で進入路を市道として認定する際、稲村城跡がある地元稲地区の住民の声を十分審議しなかったように聞いています。一部の住民のなかには、以前から稲村城跡の保存と活用を市当局に要望していたにもかかわらず、無視されつづけてきたという経緯があります。

また、里見氏の歴史へ強い愛着をもつ「郷土史愛好家」たちのなかで、城跡保存を訴える行動も聞いていますが、行政を動かすまで至らなかったようです。その後、私たちの耳に入った頃は、はぼ稲村城跡部分を残して進入路建設が進んでおり、そのような状況のなかで保存運動をはじめることは、安房の政治的状況からいっても、また地元から保存を求める声が全くないなかで、ある意味では極めて無謀な行動と受け取られました。

では、なぜ保存運動を起こすことができたのか。それは2年近くの「戦後50年・平和を考える集い」の活動を通して、地域の人々が地域学習しながら平和運動を進めていくなかで、主体的で自覚的な実践運動をすすめていた体験を活かすことができたからと、私自身は捉えています。

と同時に、保存運動の出発点では「里見」氏にゆかりがあると称する方々や、従来から市民講座などで、郷土史を学んでいた年輩の皆さんが多数集まりました。そこには、アイデンティテーにかかわる「地縁血縁の論理」というか、あるいはその感情が働き、イデオロギーを越えた運動状況が形成されました。そのような動きが、たとえば館山市議会内の保守系議員の協力を得る上で、大きな役割を果たしたと思います。保存運動のなかにある「地縁血縁の論理」が状況を変えていく力として働いたことは否定できませんが、しかし不安定な側面もあったことを指摘せざるを得ません。

それは行政当局と対立するなかで、いままでそのような政治的状況を経験したことのない市民にとって、運動の方向によっては、離脱せざるを得ない傾向があったのです。本当に保存を願うならば、積極的な参加があっていいはずですが、それがなかなか難しいのです。地域に働いている論理をうち破る力量をもった会の組織化が急がれました。まず、高校教師を核として「戦後50年」で関わった市民、また郷土史や里見氏の歴史に関心の高い市民などに呼びかけ「里見氏稲村城跡を保存する会」を結成しました。

当初より保存運動に対して、「文化では飯は食えない」という地元有力者の弁に見られるように、地域と行政当局とが一体になってすすめる「工業団地」事業、つまり企業誘致による「地域振興」と雇用の場確保の推進をストップさせる運動と受け取ったようです。市議会の文教民生委員会でも一部委員からは「工業団地」の反対運動だと決めつける発言がありました。

このように保存運動を恐れていた背景には、地域住民のなかにも、実は進入路の建設をめぐって様々な意見があり、当初から地元・地権者の一部に城跡破壊には反対だという意見があったというのです。しかし、市当局が計画路線を強引に押し進めることができたのも、「ムラ共同体」的雰囲気が今も残る地域において、地元の有力者に対する気兼ねから、正面から反対を表明するのが難しい地域性が利用されたともいえます。また、地域農業が展望を見出しにくいなかで、金銭のからみや土地買収に乗りやすい現実があったはずです。その魅力を断ち切って文化財を守る観点に立つには、それなりの文化財への価値観をつくりだす必要がありました。地元の人々を巻き込みながら、幅広い保存運動を作り上げていくには、地域の文化再生の運動、つまり地域に根ざす文化活動が求められていました。

 

【5】地域を変える市民運動にするために 〜地域に根ざす市民の文化活動

地域から保存運動を生み出し、それを継続するためには、安房地域全体を視野におき、何が本当に地域住民のためになるかを具体的に問題提起していくことが重要でした。そのために私は3回、房日新聞に投稿し、市当局の文化行政のあり方に異議を申し立て、何よりも「地域づくり」として地域文化の保存・再生が大切なことを安房地域の人々に訴えました。

この運動は、政治的には稲村城跡の保存と史跡化をめぐる「請願書」の採択を求める形をとりましたが、「請願書」を採択させるといっても、地域に支配する政治状況をかえる必要がありました。その近道がさまざまな文化活動を展開しながら、市民たちの参加を図ることでした。行政当局に抵抗している保存運動という印象を薄めながら、誰もが気軽に参加する活動をつくることが求められました。そのことを踏まえながら、地域に根ざした文化活動を強力に押し進めたのは、正念場をむかえた2年目に入ってからです。反対のための反対運動ではないことを文化活動で示していく必要がありました。

質的な飛躍を運動のなかでつくるために、市民による文化財保存運動にふさわしい活動計画をたて、一人ひとりの会員の創意工夫を活かしながら、「地域づくり」にかかわる文化活動をめざしました。

まず、稲村城跡の「草刈り」や、案内板・説明看板の設置、さらに見学コースの整備をして、市民や子供たちが気軽に立ち寄れる遺跡作りに努めたことです。

2つめには、市民に保存運動と稲村城を再認識してもらう機会として、手作りの企画展「わたしたちの稲村城跡大発見フェア」を市の施設で7日間開催し、五百名近い来場を得ました。展示では、公募した里見氏や稲村城に関わる絵画・書・詩・写真などの創作をはじめ、里見氏や城郭の歴史、稲村城跡の立体模型(縮尺1/625)・イラストの展示、さらに史跡化のための資料や保存運動の経過や活動を報告しました。

3つめには、講演会や現地見学会、「里見の道」ウォーキングの実施だけでなく、最新の里見氏研究を学ぶ「房総里見氏」講座や、稲村城跡ガイド養成のためのボランティア・ガイド講座、さらには夏休みに子供たちを対象にした「ウォークラリー稲村城跡わんぱく探検」などを開催しました。毎月何らかの行事があり、その都度地元新聞で参加を呼びかけ、時には案内ビラの配布や新聞の折り込みなどで対応しました。

そして4つめに、請願書採択に関わる運動の山場に川名登氏や佐藤博信氏、峰岸純夫氏らをはじめ研究者・専門家の協力を仰いで、盛大なシンポジウムを開催したことです。「里見氏再考-里見氏の実像に迫る」と題したシンポジウムでは、保存運動の地域での役割と、この間の専門研究の進展を紹介することができました。さまざまな研究成果は安房の歴史的文化的環境の解明につながり、さらに活発な地域史研究を生み、地域に根ざして取り組んでいる文化活動の展開と相まって、今後行政当局との協力関係をつくるうえで、重要な役割を果たすと予感させました。

そして付け加えるならば、このような文化活動を支えるために、会の事務局には地味な仕事を粘り強く担い続けた女性たちや、労を惜しまず「草刈り」や整備に協力してくれた年輩の方々がいたということです。この方々を保存運動という行動にかりたてたものは何であったのでしょうか。それは本当に意味のある仕事をしたいという思いではないかと思うのです。義務や付き合いで、仕方なく動くのではなく、価値ある仕事に一生の一部分を捧げたいという思いや、歴史を学ぶだけではなく、歴史と文化を守ることが、ひいては新しい歴史をつくることになるのだということをこの保存運動を通じて、実感しえたからではないでしょうか。

振り返ってみますと、地道に地域に根ざした文化活動の取り組みには、延べ千数百名の市民の参加がありましたが、ここ2年間にわたる保存運動の結実した姿として評価され、運動が継続していることの意味を強くアピールしました。それとともに、地域文化の保存・再生には、地域に根ざす文化活動が大切なこと、それが保守的な地域社会を変容させる契機になることをも示しました。地域から生み出された市民の主体的な文化活動は、遠いようで確実な保存運動として、結局は「請願書」審査をする文教民生委員会に対して信頼感を高め、12月市議会での全会一致採択に至ったのです。9000筆近い署名と歴史関係学会をはじめとする学者・研究者の支援のなかで、「請願書」は採択され、そして稲村城跡は残ったのです。

いま私たちは前途に困難な状況も予測されますが、次の史跡化にむけて歩みだしています。とくに、安房にある里見氏城郭群の国指定史跡化をめざしています。そのためにも、引き続き、地域に根ざす地域研究や歴史教育を活かしながら、市民を主体にした文化活動に取り組み、地域の文化の保存・再生に努力してまいりたいと思っています。