館山の近現代

1868(明治元)年、大名の改編により長尾藩・花房藩・勝山藩・館山藩の4藩が安房を領地としたものの、版籍奉還と廃藩置県で安房・上総一円を管轄する木更津県がおかれ、後に印旛郡と合併して千葉県となっていった。

近代日本としての「文明開化」の波は、東京から海路を通じて直接、館山を玄関口にして流れ込んできた。1878(明治11)年、東京(霊岸島)と館山間を5時間という汽船が就航し、従来の時間を大幅に短縮させただけでなく、大都市東京に農水産品を大量に送り出すことが可能となった。1889(明治22)年には東京湾汽船会社(後の東海汽船)が設立され、房州うちわや竹材製品、水産加工品、白土など特産品の輸送とともに、避暑避寒をはじめ海水浴場や学校の水泳訓練や合宿、さらには結核などの転地療法を施すために、館山には多くの人びとが訪れるようになった。なかでも浅井忠や青木繁、中村彝、尾崎紅葉、島崎藤村、山村暮鳥、林芙美子、若山牧水など美術・文学関係者をはじめとして、文化・芸術分野で活躍する人びとが館山の地に足を運んでいる。

また、伝統的な捕鯨業やマグロ延縄業などの発展とともに、関澤明清や正木清一郎らが取り組んだ日本や千葉の近代水産業や水産教育の中心地として、安房地域は近代捕鯨や北洋漁業などを通じて、水産日本の姿を世界に知らしめていった。

さらに、地域に生きていく先人たちの知恵を継承しようという寺子屋教育から続いてきた地域での学校教育への強い取り組みがあった。小学校教育だけでなく、高等教育や専門教育の機会をつくるために奔走した安房の人びとは、地域に根ざす建学の精神をもって、1901(明治34)年に県立安房中学校(安房高)、1905(明治38)年に私立安房女子裁縫伝習所(安房西高)、1907(明治40)年には郡立女子技芸学校(安房南高)、1922(大正11)年に郡立農業水産学校(翌年に安房農学校と安房水産学校に分立)、1926(大正15)年には北条町立実科女学校(館山高)などを次々に創立していった。

ところで、日本の主な海峡や港湾の防衛のために大規模な要塞が建設されるが、そのスタートが東京湾岸であった。日清・日露戦争もあり、対外戦略にそって積極的に要塞がつくられ、1880(明治13)年に起工され、1932(昭和7)年に完成した「東京湾要塞」である。帝都東京や海軍の拠点横須賀を防衛するためにさまざまな軍事施設がつくられ、そこに住む人びとは国家機密保持ということで厳しい規制のもとにおかれることとなった。

と同時に、安房地域を大きく変貌させたのは鉄道の開通であり、1919(大正8)年には、安房北条駅(現JR館山駅)まで鉄道が敷かれ、海路に依存していた物資輸送などは切り換えられ、人びとの動きも変わってまちなかの再編がすすんだ。

そんななか、1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起こり、館山市全域は壊滅的打撃を受け、津波もあり、関東各地のなかでも最も大きい被害地域であった。だが、すぐに地域を挙げての協力体制がとられ、震災復興会が組織され、人びとは道路・河川・港湾などをはじめ農林水産商業などの立て直しを急速にすすめた。翌年には海水浴客の誘致をおこない、観光振興を通じての震災復興が図られている。

1930(昭和5)年に関東大震災で隆起した館山湾の浅瀬を埋め立てて、館山海軍航空隊が、41年には佐野・神戸にあった平砂浦海岸の耕地を演習地にして海軍砲術学校が開設された。なお、1939(昭和14)年に館山北条町・那古町・船形町が合併して館山市となったが、東京湾要塞地帯の一角には重要な軍事施設が置かれ、全国から多くの若者たちが送り込まれ、軍都館山となっていった。

1941(昭和16)年に対米英戦が勃発し、館山基地は太平洋世界での戦闘の最前線になっていった。米軍側の反撃は早く、日本が設定した絶対国防圏が崩れるとB29爆撃機での空爆がはじまり、1945(昭和20)年はじめの米軍硫黄島上陸作戦を前に、館山基地でもそれまでにない激しい攻撃が加えられた。その際に軍事施設はもちろん列車や民間施設なども攻撃目標になり、安房の人びとは大きな被害を受け、本土決戦が目前に迫ったと実感させた。戦争末期、本土決戦の最重要地域となった房総南部には、7万人近い軍隊が配備され、鋸山は最後の抵抗陣地とする「第二の沖縄戦」を想定し、米軍を迎え撃つ態勢を整えた。

こうして、館山基地や赤山地下壕周辺で本土決戦に備えた施設や掩体壕の建設を突貫工事ですすめていた1945(昭和20)年8月15日、終戦をむかえたのであった。軍都館山は特攻部隊の存在や軍隊のクーデタ未遂事件などで不穏な状況下にあったが、市内には外務省の終戦連絡事務所(旧・木村屋旅館)が設けられた。そして、9月3日に米占領軍3,500名が館山に上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政を敷いたといわれる。

軍都館山の人びとの戦争による傷跡は深く、市民たちは平和を求めていた。1951(昭和26)年のユネスコ総会で日本は60番目のユネスコ加盟国として認められ、1947(昭和22)年世界で最初に民間ユネスコ運動を始めた仙台ユネスコ協力会が結成され、翌年には全国でも数番目、千葉県内では初めての館山ユネスコ協力会が設立された。そのなかで1951(昭和26)年、西ノ浜に館山ユネスコ保育園がユネスコ精神で開設された。

1948(昭和23)年には、神戸村で千葉県内初の女性村長・早川みたが誕生し、改変されていた平砂浦海岸の砂防林造成事業に尽力している。1954(昭和29)年には、西岬村・神戸村・富崎村・豊房村・館野村・九重村6村と合併し、現在の館山市となったのである。