館山の中世
石橋山で敗れた源頼朝は、安房で再起を図り鎌倉幕府を開いたが、鎌倉にとって対岸にある安房は重要な拠点となった。その痕跡として館山では、鎌倉にある武士や僧侶の墓とされる「やぐら」が数多く存在する。萱野遺跡からは北条氏家紋がついた瓦が出土し、鎌倉鶴岡八幡宮や極楽寺・建長寺などと関わる寺院との関係が推測されるなど、東京湾を挟んで安房と鎌倉との交流は深いものがあった。
15世紀中ごろ関東戦国期の幕開き、上野国新田氏を源流とする房総里見氏の祖・里見義実は、鎌倉公方足利氏の命を受けて、対立する関東管領上杉氏を駆逐するために安房に進出し、交易の拠点白浜を攻略した後に、国府に近く水陸交通の要衝の地に本城稲村城を築いて支配を固めた。16世紀に入って天文の内乱という権力争いでは、国主義豊は敗れて庶流の義堯(よしたか)に家督が移った。戦国大名として実力をつけた義堯・義弘は、約40年に渡って東京湾の海上交易をめぐる後北条氏との戦いを繰り広げた。平和外交策をとった義頼の代に、安定した領国支配が実現した。しかし16世紀後半になって、豊臣秀吉から上総国を没収された義康は、安房一国だけの大名となったので、居城を館山城に移し城下町建設をすすめるとともに、交易拠点である高の島湊を整備して国内流通をすすめていった。