ハングル「四面石塔」

●大巌院のハングル「四面石塔」

(千葉県指定有形文化財)


1624(元和10)年、雄誉霊巌上人が建立した四面石塔(千葉県指定文化財)。高さは219cm。東西南北の各面に、朝鮮ハングル・中国篆字・和風漢字・印度梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。特に注目されるのは「ハングル字形」が朝鮮国第4代王世宗が1446年に公布したものの、短期間で消滅したという創成初期の「東国正韻」式の字形といわれ、韓国にもない非常に貴重なものである。

各面にそれぞれ水向けが施されていることから、すべてが正面であり、世界平等を表わしていると考えらる。南面の和風漢字の両側には、「門門不同八万四 為滅無明果業因 利剣即是弥陀号 一声称念罪皆除」と讃偈(経文)が刻まれており、人の苦しみを和らげる経文だという。

北面の梵字の左側には「干時元和十年三月十四日房州山下大網村大巖院檀蓮社雄誉<花押>」とあり、元和10(1624)年に雄誉上人が大巌院に石塔を建立したことが分かる。実際には、同年2月30日付けで元和から寛永に改元されているため、3月14日の日付に元和となっているのは謎がのこる。
同じ北面の右側には「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修」とあり、水向を寄進した施主は山村茂兵であり、逆修のためとして夫婦の戒名が刻まれている。逆修とは、生前に自分の法要をおこない戒名を授かることを指す。 歴史背景をみてみると、建立された1624年は、秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)から33年目にあたり、拉致した朝鮮人を帰国する外交事業(第3回朝鮮通信使兼刷還使)がおこなわれている。このような時代背景から、異国で亡くなった戦没者供養と平和祈願をこめて建立されたのではないかと推察される。

この石塔を教材とした教育の実践から、2002年(日韓交流年)には日韓歴史教育シンポジウム、2004年(日韓友情年)には日韓子ども交流が館山で開かれ、相互理解と親善を深めた。

(※)回答兼刷還使=日本側の国書(回答=謝罪)と朝鮮侵略で拉致連行してきた朝鮮人捕虜を帰国させるための外交事業。

大巌院(館山市大網398)

1603(慶長8)年、里見義康の帰依により、雄誉霊巌上人を開山として創建。浄土宗の檀林。里見忠義以降、江戸時代を通して42石の寺領が与えられていた。その後、雄誉は江戸城の真正面(霊岸島:現在の中央区新川)に霊巌寺を創建するが、明暦の大火により焼失し深川に移転する。奇しくも、馬琴は深川・霊巌寺のそばで生まれている。雄誉は後年、京都・知恩院の中興の祖となり、日本一大きな梵鐘を建造している。

後年、雄誉の弟子が著した『霊巌上人伝記』によると、大巌院に朝鮮人が来訪したと記されている。1636年の第3回朝鮮通信使(回答兼刷還使)の年であり、日光東照宮に朝鮮の鐘を希望する際、海路で館山に寄港した可能性も示唆されている。雄誉が開いた江戸霊巌寺が朝鮮通信使の宿坊の一つであった可能性もあり、館山の大巌院の話が伝わったのかもしれない。朝鮮通信使の正史ではルートにないが、館山に立ち寄ったとすれば興味深い歴史である。

◆ ハングル「四面石塔」400年記念シンポジウム
2024.11.9.(土)

【参考論文】
*エコレポ013「日韓友情の証~ハングル四面石塔」

愛沢伸雄著>

大巌院「四面石塔」に刻まれたハングルの謎(「房総史学」35号 1995)
江戸時代ハングル「四面石塔」のなぞ〜安房から見た日本と韓国(朝鮮)の交流
地域教材「四面石塔」を活かした現代社会の授業実践
16・17世紀の安房からみた日本と朝鮮〜朝鮮侵略から善隣友好へ
近世安房にみる朝鮮〜朝鮮通信使と万石騒動

<ハングル・日本語>
・張榮吉先生と愛沢伸雄のレポートは「下位セクション」より見られます。

【日韓交流事業】
NPO法人安房文化遺産フォーラムでは、安房に残るアジア交流の史跡をめぐり、日韓交流を育んでいます。
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