日韓の遭難記念碑

■「順天丸」の殉難碑
関澤明清の弟・鏑木余三郎に引き継がれた房総遠洋漁業は、1901(明治34)年に東京市の帝国水産会社から漁船「順天丸」を購入、創業したが、1903(明治36)年に朝鮮海域で遭難沈没した。殉難者22名を悼み、楠見の石工・俵光石によって彫られた遭難記念碑は、北下台の関澤の顕彰碑に寄り添うように建立された。

■「坂東丸」の殉難碑
那古から新井浦に移転した千葉県水産試験場(後に南房総市千倉町へ移転)では漁業指導船兼漁業実習船として、1908(明治41)年に西洋型帆船「坂東丸」を建造したが、1910(明治43)年12月17日、銚子沖で暴風雨に遭い、11名が殉難。同じく北下台に供養碑を建立した。毎年命日に行なわれる慰霊祭は、水産講習所から安房水産高校に引き継がれていた。

■「快鷹丸」の殉難碑
近代漁業の基礎を築いた水産講習所の初の練習船「快鷹丸」は、館山湾で訓練を重ねていた。1907(明治40)年9月9日、朝鮮半島の迎日湾(現韓国浦項市)で操業中、暴風雨に遭遇し、学生と教官4名が殉難した。生存者は地元住民らによって救助、保護されたという。

1926(大正15)年、迎日湾の九万洞に高さ3m強の石碑が建立された。しかし両国の戦争を経て土中に埋もれていたところ、1971(昭和46)年、浦項市文化財保存委員長の朴一天氏と在日韓国人の韓永出氏の尽力により再建されたという。東京海洋大学の同窓会・楽水会では、地元住民とともに今なお碑の保存と供養を続けている。

2007(平成19)年9月9日、遭難100年を記念して、楽水会と館山のNPO有志は現地を参詣し、地元住民らと親睦交流を深めた。韓国最東端の岬で漁撈に従事する人びとは、「海に生きる男同士の友情の証として、この碑を守っていかなくてはならない」と力強く訴えていた。