水産教育のあゆみと館山の平和祈念像

■ 水産伝習所 → 水産講習所 → 東京水産大学 → 東京海洋大学

1888(明治21)年、関澤明清らにより大日本水産会水産伝習所が東京に設立。1897(明治30)年に官制の水産講習所となり、1949(昭和24)年に東京水産大学、2003(平成15)年に東京商船大学と合併し、東京海洋大学となる。 1901(明治34)年に館山の実習場を開設以来、現在でも北下台に隣接した場所と坂田地区に同大学館山ステーションがある。1909(明治42)年には高ノ島実験場が竣工されたが、1930(昭和5)年に館山海軍航空隊の開隊に伴って小湊へ移転しており、現在は遺構がのこっている。

1907(明治40)年9月9日、館山湾で訓練していた水産講習所の練習船「快鷹丸」は、サバ漁調査の名目で出漁した朝鮮海域の浦項(ポハン)沖にて嵐に遭遇、4名の学生と教員が犠牲になった。朝鮮の漁師たちに救助された乗組員らは、日本から迎えにきた軍艦で帰国。地元漁師と水産伝習所が協力して、1926(大正15)年に遭難記念碑が建立された。しかし韓国併合の後、終戦時には反日感情の人にとによって倒され土中に埋められた。1975(昭和46)年に、心ある韓国人と在日韓国人により掘りおこしが呼びかけられ、東京水産大学も共同事業として再建された。遭難100年記念には、水産大学同窓会「楽水会」および統合後の東京海洋大学学長らとともに、NPO法人安房文化遺産フォーラムも渡韓し、供養交流に参加した。

■ 安房水産高校のあゆみ

1898(明治31)年の農商務省令により、国内に相次いで水産試験場と水産講習所が設置された。千葉県では翌年に勝浦、那古(現館山市)に水産試験場が設置されたことに伴い、1903(明治36)年から県の千葉県水産講習所が発足し、水産教育がはじまった。全寮制で、2ヶ年の本科は水産学全般、研究科はさらに1年間、漁撈・製造・養殖の3科に分かれ、専門知識を修めた。当時の勉強は、朝4時に起床し八丁櫓で漕ぎ出し、その漁獲物を朝食後の授業で加工し、時に嵐となれば漂着した海藻を焼いてヨードを採り、カリ肥料をつくった。卒業生には、水産業発展に尽力したり、北洋や南洋に活躍した人が多い。1922(大正11)年の安房郡立農業水産分校を経て、翌年千葉県立安房水産学校となる。

戦後に県立安房水産高校となるが、2008(平成20)年春、統廃合により県立館山総合高校海洋科となっている。

 

● 安房水産高校・初代校長の胸像

安房水産学校(現館山総合高校海洋科)では、笹子治初代校長の遺徳をたたえ、1933(昭和8)年にブロンズ胸像を建立。戦争中、銅像は軍に金属供出となったが、当時の教員により石膏型が残され、1962(昭和37)年同窓会により再建された。製作者は、後に長崎の平和記念像を製作した著名な彫刻家・北村西望である。東京美術学校(現東京芸術大学)の教授であった北村西望は、自分の作品が次々と兵器に変えられることに怒りを覚え、同校を退官し、銅像救出運動に奔走したという。

同じ時代に、せめて石膏型を残し、教育や文化への精神を守った教員の功績は大きい。これは「館山の平和祈念像」といえるのではないだろうか。
校長室には、「水流月不動」と書かれた北村西望の書額が今も掲げられている。「水は流れど月は動かず」と読み、たとえ水面(世)が流れ動いてもそこに映る月(精神)は不動であるという意味。