アメリカ軍の本土侵攻「コロネット」作戦とアメリカ占領軍の館山上陸・戦後の日本
●アメリカ軍の本土侵攻作戦〜「コロネット」作戦●
アメリカ軍は日本本土の侵攻のなかで、房総半島をどう位置付けていただろうか。昭和20年(1945)5月に策定された関東平野侵攻作戦計画概略をみると、東京湾要塞をどう見ていたかがわかる。そのひとつは日本軍にとって防衛施設を設置するのに最も適した地形をもっているのは、房総半島や阿武隈高地、三浦半島、それに都市部であって、防御の陣地として整備されているのが東京湾内の浦賀水道付近と見ていた。また、関東平野で最も防衛体制が強化された地域も東京湾の入口にあたる浦賀水道とし、恒久的な要塞施設はすべて浦賀水道を中心に設置され、その目的は東京湾への侵入を防ぐことにあると述べている。
ところで、戦術上山岳地帯の多い房総半島などは、日本軍にとって絶好の防衛拠点となるが、上陸地域と進軍ルートをみると、九十九里海岸に上陸した場合は、西方に進み房総半島を孤立化させたり、また半島南東部の海岸部も上陸地点とするとしている。
作戦計画では、上陸進軍コース設定にあたり4つの進軍行動が検討され、それぞれA茨城磯浜海岸南部、B銚子付近、C九十九里海岸片貝付近、D相模湾大磯片瀬付近としている。そのなかで相模湾最奥部にある大磯ー片瀬地域に上陸し、ここを中心拠点として関東平野への侵攻作戦を展開するコースが、最も利点が多く欠点が少ないとされ、秘匿作戦名「Dデー」となっていった。
このコースは、東京湾の西側沿いにある重要な目標にも最も近く、同時に地形が軍事作戦上最も適していると判断し、補助的には九十九里海岸の片貝に上陸することによって、房総半島の首の部分を遮断して、半島の西側を制圧するとした侵攻作戦になると結論づけている。作戦実施日時は、九州侵攻作戦を1945年12月1日、本州侵攻作戦を翌年3月1日とし、もし九州侵攻をしない場合は、同年1月に繰り上げるとした。
本土侵攻の具体的な作戦は6段階に分け、まず第1段階では海軍と空軍によって東京湾要塞への攻略を進め、日本陸海軍の航空機や沿岸砲台、そして交通網を破壊するとしている。また、アメリカ軍にとって東京湾は日本帝国最強の防衛施設が多数配備されていると見ていたので、主要部隊が相模湾に面した地域に上陸する前に、その防衛施設の一部を破壊し、また東京湾を制圧するときは、その防衛施設全部を破壊しておく必要があるとしていた。そのための事前作戦として、樹木の葉を落とす落葉剤を散布したり、迷彩を落とすための焼夷弾や飛散性爆弾を多数使用するとした。また航空写真の撮影によって防衛施設の設置場所を精密に把握して、大型爆弾やロケット弾を多用して、最後のとどめは艦砲射撃の実施とした。
アメリカ軍側の分析によると、もし連合軍の上陸作戦が成功するとすれば、日本の航空兵力は10日以内にほぼ全滅し、有効な反撃はできなくなると考えていた。しかし、最終盤の数日間にわたって、連合軍艦船および上陸後の部隊に対して、日本軍側は大規模な自殺覚悟の体あたり攻撃をしてくると見ていた。「…敵は東京地域を防衛するために、200から300隻の玉砕型舟艇や戦闘小艇を使用すると推定できる。これらの水上艇は夜陰や霧に乗じ、上陸地点に向かう米軍の輸送船を攻撃するだろうが、攻撃範囲は、おそらく半径100マイルを超えないであろう」と記載されている。
また、地上作戦の概略のなかでは、第2段階の片貝ー銚子上陸軍の陸軍作戦行動のなかで、房総半島の日本軍を孤立さるために、片貝の上陸軍は房総半島西部にある日本軍の沿岸砲台や部隊の大砲を破壊するとした。なお、房総半島の日本軍を掃討する方法としては、「Dデー」の10日後に房総半島南東部の和田あるいは鴨川に、1個師団を上陸させることを想定している。
さて海上作戦を見ると、相模湾への侵入を強行する際に、大島東側を通る東京湾への入口の幅が大島西側を通る入口の幅に比べて広いので、東側の入口から侵入する場合、日本軍の防衛施設から砲弾を浴びることは避けられない。しかし、いずれは大島東側からの艦船侵入路を確保しなければならないので、アメリカ軍としては当初から、大島東側から艦船を侵入させる作戦を実施するとしている。つまり、東京湾要塞房総地区砲台のある場所として、洲崎と大島との間を通って東京湾に入っていくには、かなりの犠牲を払うことを覚悟していたと思われる。
しかし、東京湾への強行侵入作戦は、東京湾の水路が狭いので艦船の行動範囲が制限されるため、アメリカ地上軍が浦賀水道の東西両側沿岸部にある要塞砲台群を攻撃できる距離に達するまでは、作戦を実施しないとしている。日本軍の強力な防衛施設を完全に破壊するには、アメリカの上陸軍が空爆および艦砲射撃の支援のもとで攻撃する必要があり、実際にはそこを占領することが重要であるので、東京湾への強行侵入作戦の開始は、早くても「Dデー」の20日後になるだろうと報告している。なお、『日本各県マニュアル(千葉県第1分冊抄)』の序文のなかには「このマニュアルの基になっているデータには1945年7月1日現在、カルフォルニア州モントレー駐屯地で入手した情報が含まれている」という注目される一文がある。カルフォルニア州のモントレーこそ、20世紀初めに房総南部出身のアワビ漁業の潜水夫たちが多数活躍したという、アワビ潜水器漁業の基地があった場所であった。つまり、アメリカ軍の日本侵攻作戦における南房総・安房の情報源や日系二世部隊には、カルフォルニアでアワビ漁に従事していた日本人たちが関わっていたのではないかと想定されるのである。
昭和20年(1945)2月にクリミア半島のヤルタでは、アメリカ・イギリス・ソ連の三国の首脳会談(ヤルタ会談)がおこなわれ、さらに三国は、7月にベルリン郊外のポツダムで会談をして、ヨーロッパの戦後処理問題を協議した。会談を契機にアメリカは対日方針をイギリスに提案し、イギリスおよび中国の三交戦国の名で日本軍への無条件降伏勧告と日本の戦後処理方針からなるポツダム宣言を発表した。
日本政府が「国体護持」の観点から無条件降伏を逡巡している間に、アメリカは人類史上はじめて製造した2発の原子爆弾を8月6日広島に、8月9日長崎に投下した。また、8月8日にはソ連が宣戦布告して、満州・朝鮮に侵入した。陸軍はなおも本土決戦を主張していたものの、ポツダム宣言受諾を決定した。8月15日正午、天皇のラジオ放送で戦争終結が全国民に発表され、9月2日には東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府および軍代表が降伏文書に署名して4年にわたった太平洋戦争は終了したのであった。
そして、翌日の9月3日午前9時20分、カニンガム准将がアメリカ陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊約3500名を率いて館山に上陸してきたのであった。
●アメリカ占領軍の館山上陸●
東京湾口に位置する館山は、軍事上最重要地域であったので、アメリカ軍は決戦の上陸地点として想定しただけでなく、日本の敗戦後は上陸占領地として構想した。アメリカ政府は占領軍が直接軍政を敷いた沖縄を除き、日本本土ではポツダム宣言にそって、日本政府を通じた間接的な占領行政を指示した。しかし敗戦直後、占領軍が最初に上陸した館山において、4日間ではあるが、本土で唯一の「直接軍政」を指示したといわれる。その中心舞台は館山海軍航空基地であった
昭和20年(1945)8月14日、御前会議ではポツダム宣言を無条件で受諾することを決定した。翌日午前中、木更津海軍航空隊より特攻機20数機が発進しているという。正午には「戦争終結の詔勅」が発布されたが、館山の街頭では、陸軍の軍人が血気盛んに「国民よ総決起せよ」と檄をとばしていた。16日には木更津航空基地を飛び立った練習機1機が、第147師団(護北兵団)司令部や東京湾要塞司令部の上空を旋回し、「終戦は敵の謀略だ。我々は断固として最後まで戦う」というビラを撒いたといわれる。
大本営は、連合軍に対する敵対行為の中止命令を出し、陸海軍人に終戦の勅語を発布している。ところが、17日午後10時に東京湾要塞司令部のあった館山の船形国民学校における終戦詔勅伝達式では、第147師団第427連隊の一部将校が大隊をつかい、伝達式に参列する侍従武官や師団長はじめ全将校を取り囲み、いっせい射撃で全員を射殺して、自動車で東京に向かうというクーデターを画策したが、結局未遂に終わったとされる。
19日には、連合軍総司令部の指示で陸軍中将河辺虎四郎団長が率いる降伏使節団が、マニラのマッカーサーのもとへ派遣され、占領軍との折衝窓口となる「中央機関」を8月31日までに設置することが命じられた。22日、大本営は千葉市と市原郡鶴舞町から、安房郡天津町を結ぶ線より西側の東京湾岸地域に駐屯していた日本陸海軍武装部隊に対して、27日の午後6時まで、湾岸地域外に移動することを命令している。アメリカ軍も戦闘機を日本本土に一斉出動させ、超低空飛行で威圧し、哨戒飛行で未解散部隊の動向を調査している。住民に対しては、千葉県当局はアメリカ軍占領にともない、県民の平静をもとめるチラシを作っている。23日には、陸軍大臣から「復員要綱細則」が発令され、アメリカ第3艦隊が相模湾に入った27日には、午後6時以降県内の13ヶ所に検問所を設置して、警備警察官と日本憲兵でアメリカ占領軍の警備にあたり、一部海軍保安隊を除いて、全員が22日の大本営命令通りに移動を終わった。
28日、マニラのマッカーサー司令部から大本営に対して「9月日、占領軍本隊であるアメリカ第8軍の一部が館山海軍航空隊に進駐する」との打電があった。アメリカ統合参謀本部は、マッカーサーに対して、日本占領方針として、天皇制を利用しながら、日本政府を通じて統治する間接占領方式を指示していた。30日早朝、横須賀軍港に7000名のアメリカ第6海兵師団が上陸し占領した。午前6時に第6海兵師団の第4連隊第2大隊が富津岬に上陸し、東京湾要塞の要である海堡を爆破した。そして、午前8時頃、マッカーサーは厚木に到着した。この日、警備警察部隊2個大隊がアメリカ軍上陸地点の館山海軍航空隊や洲ノ埼海軍航空隊周辺での軍隊の反乱に備えて警戒体制に入るとともに、占領軍を迎える外務省館山地区連合軍受入設営委員会(31日に館山終戦連絡委員会と改称)が設置され、まずアメリカ軍占領駐屯地になる館山海軍航空隊周辺の民家に、強制立ち退きを命じた。31日には政府は国鉄房総東線を鴨川駅止まり、房総西線を那古船形駅止まりにし、館山地区を完全に隔離した。
そして、8月31日午前2時頃か、あるいは午前10時頃に、館山港沖のアメリカ艦船から上陸用舟艇が接岸し、武装兵士が上陸したとの証言がある。午後2時、館山海軍航空隊の東側岸壁に、アメリカ第8軍のクロフォード少佐が指揮する先遣海兵隊235名が上陸した。警察署報告では、先遣隊一部兵士は翌9月1日にかけて、館山市内で強姦2件・強姦未遂6件・猥褻5件・物品強奪4件・武器略奪2件・住居侵入16件・人員拉致一件の合計36件もの事件を引き起こしている。
この日の午後3時、台風接近のためかアメリカ軍進駐が変更され、政府は「9月1日横浜及び館山に上陸の予定なりし第8軍の一部は、その主力の上陸を横浜に於いては9月2日、館山に於いては9月3日に変更」と発表している。アメリカ軍は東京湾岸をはさむ館山と横浜に、それぞれ正規軍を上陸させ、首都制圧へのはさみ撃ち作戦を計画していた。
9月2日午前8時45分、東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏文書調印式がおこなわれた。午後4時、終戦連絡横浜事務局長は、総司令部マーシャル参謀次長から「マッカーサーの三布告。(1)日本政府の一切の権能が連合国軍最高司令官の権力の下に置かれることなどの一般事項。(2)占領政策の違反者を軍事裁判により処罰すること。(3)アメリカ軍の軍票B円を日本銀行円とともに法定通貨とする。」の文書を手渡され、9月3日に告示されるとの報告をうけた。ポツダム宣言とは違う布告文書に驚いた政府は、マッカーサーに重光外相を派遣し、「三布告」撤回を強く要請した結果、撤回に成功した。午前10時、サザーランド参謀長より「三布告」撤回指令が、各部隊の司令官に出された。
9月3日午前9時20分、カニンガム准将がアメリカ陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊約3500名を率いて館山に上陸した。この部隊は日本軍の武装解除と民政監督を任務にしていた。カニンガム准将は、九月三日付で「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」六項目の指令を出した。その内容は、24時間以内に軍需施設・兵器弾薬の位置図・交通・通信施設等の概況を報告することと、占領軍によって館山を「直接軍政」下におき、行政のための軍政参謀課を設置することを予告した。その規制は、裁判所権限や財産管理、また商品・物価統制など市民生活に関すること、さらに「一切ノ学校ヲ閉鎖」や劇場・酒場の閉鎖だけでなく、市民の外出も午後7時から午前6時までは禁止という内容であった。
この突然の「直接軍政」命令に驚いた館山終戦連絡委員会は、すぐに政府に連絡し、アメリカ太平洋陸軍総司令部に対しては「日本政府ノ機能ヲ存続シ尊重スルト云フ一般方針ニ矛盾スルノミナラス一切ノ学校ヲ閉鎖スルカ如キハ国民ノ教育ト進歩トノ見地ヨリ忍ヒ難キコト」と覚書を提出した。5日には、新聞で「館山湾地区に軍政」と掲載されたが、翌日には「軍政ではない 館山の進駐軍」と訂正の報道がなされ、「直接軍政」は否定された。また、県警察部長の「命令文には民政を監督するとはいっているが、軍政を実施するとはいっていない。この点、一般は誤解のないようにして貰いたい」との談話が出された。
9月7日、館山終戦連絡委員会は「陸軍部隊ハ海兵隊ニ比較シ其ノ態度、紳士的ニシテ当方トノ交渉ハ極メテ円滑ニ進行シツツアリ」と報告するとともに、新聞報道では民政監督部長のマックメーンズ中佐が、「米軍と市民との間に突発しそうな事件を未然に防ぐのが第一の目的」と談話を述べている。この日、「米軍側態度緩和ニ関スル件」で、「学校の開校、娼婦と芸姑の区別して芸姑の営業が許可」され、7日付文書で館山国民学校の開校が許可されている。また安房中学校の宿直日誌では「九月三日米八軍館山上陸、学校ハ当分ノ間、閉鎖ヲ命ゼラル」とあり、7日付では「全校出校、連絡不充分ノタメ出校者約半数」とある。夜間外出禁止が午後10時から午前6時までと緩和された。
九日に、マッカーサーは占領軍犯罪防止のための綱紀粛正を通達した。翌日の館山終戦連絡委員会は「館山ハ横須賀ニ対峙シテ戦略上重要ナル地点ナルニヨリ、館山ノ米軍進駐ハ相当長期ニ渉ル」と報告し、14日には千葉県知事が、カニンガムを表敬訪問している。
●アメリカ占領下の日本●
日本はポツダム宣言にもとづいて連合国に占領され、アメリカ軍による事実上の単独占領で、マッカーサー元帥を最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(以下、GHQと略)の指令・勧告にもとづき日本政府が政治をおこなう間接統治の方法がとられた。ワシントンには、連合国による対日占領政策決定の最高機関である極東委員会を置き、最高司令官の諮問機関の対日理事会は東京に置いて、アメリカ政府主導により占領政策が立案され実施されていった。
GHQにとって、軍国主義の温床になったと見られていた財閥や寄生地主制の解体は、経済民主化の中心的な課題であった。昭和20年(1945)11月に、まず三井・三菱・住友・安田など15財閥の資産の凍結と解体を命じ、翌年には持株会社整理委員会をつくって、指定された持株会社や財閥家族の所有する株式などの譲渡を受けて一般に売り出し、株式所有による財閥が支配する企業を一掃しようとした(財閥解体)。さらに、昭和22年(1947)には、いわゆる独占禁止法によって持株会社やカルテル、トラストなどを禁止して、巨大独占企業の分割がおこなわれることになった。
また、GHQは農民たちの貧しさが日本の対外侵略の重要な動機になったとし、寄生地主制を取り除いて自作農経営を大量に創出する農地改革の実施を求めた。昭和21年(1946)、日本政府は第一次農地改革案を自主的に決定したが、地主制解体の面では不徹底であったため、翌年のGHQ勧告案にもとづいて自作農創設特別措置法によって第二次農地改革が開始され、昭和25年(1950)までにほぼ完了したのであった。
不在地主の全貸付地、在村地主の貸付地のうち一定面積(都府県平均1町歩,北海道では4町歩)を超える分は国が強制的に買い上げて、小作人に優先的に安く売り渡した。その結果、全農地の半分近くを占めていた小作地が1割程度にまで減少し、農家の大半が1町歩未満の零細な自作農となった。
GHQは労働政策でも労働基本権の確立と労働組合結成の支援に向けられ、昭和20年(1945)12月には労働組合法が制定され、労働者の団結権・団体交渉権・争議権が保障された。翌年には労働関係調整法、昭和22年(1947)には8時間労働制などを規定した労働基準法が制定された。
民主化の重要な柱のひとつに教育制度の改革があった。GHQは昭和20年(1945)10月に教科書の不適当な記述の削除や、軍国主義的な教員の追放、あるいは修身や日本歴史、地理の授業を一時禁止した。また、アメリカ教育使節団の勧告により、昭和22年(1947)に教育の機会均等や男女共学の原則がおりこまれた教育基本法が制定され、義務教育は6年から9年に延長された。同時に制定された学校教育法により、4月から六・三・三・四の新学制が発足し、大学は大幅に増設され女子大学生も増加している。翌年には都道府県・市町村ごとに公選による教育委員会が設けられ、教育行政の地方分権化が図られていった。
●敗戦後のくらしと日本国憲法の制定●
戦争によって国民の生活は徹底的に破壊された。空襲によって都市の住宅の3割以上が焼失し、焼け出された人びとは防空壕や焼け跡に建てたバラック小屋で暮らしていた。鉱工業生産額は、戦前の3分の1以下に落ち込み、将兵の復員や引き揚げ者で人口は膨れあがり失業者が急増した。昭和20年(1945)は記録的な凶作で、食糧不足は深刻となり、米の配給が不足したのでサツマイモやトウモロコシなどが代用食となった。食糧の遅配や欠配が続き、都市の人びとは農村への買い出しや闇市での闇買い、家庭での自給生産で飢えをしのいだ。極度の物不足だけではなく、戦後処理のなかで通貨が大増発されて猛烈なインフレーションとなった。
翌年2月、幣原内閣は預金を封鎖して旧円の使用を禁止し、新円の引き出しを制限することで貨幣流通量を減らそうとした。だが効果は一時的であったので、第一次吉田内閣では、経済安定本部を設置して、昭和22年(1947)には、石炭・鉄鋼などの重要産業部門に資材と資金を集中する傾斜生産方式を採用し、復興金融金庫を設立して電力・海運などの基幹産業への資金供給を開始した。その結果、国民生活は一段と苦しさを増したので、人びとの要求運動は急速に広がっていった。
ところで、昭和20年(1945)10月以後、憲法改正の準備とともに、各新聞も憲法の民主化を求める社説をかかげたり、各政党や憲法研究会などによって憲法草案が発表されていった。翌年2月に幣原内閣は、従来の天皇大権の維持を基本とした憲法改正要綱をGHQに提出したので、マッカーサーも独自案の起草を急ぎ、それを政府に示して受諾を説得した。幣原内閣はGHQ案を土台にした3月に憲法改正草案要綱を決定し、翌月には憲法改正草案を発表した。
なお、前年の12月に、改正された衆議院議員選挙法が公布され、選挙権は20歳以上の男女に、被選挙権は25歳以上の男女となった。この新選挙法のもとで、この年の4月に戦後最初の総選挙がおこなわれ、食糧問題の解決やインフレ対策を求め、また新憲法審議の民主化を求める人びとの声が広がるなかで、363の政党が名のりを上げ、定数466に対し2770名が立候補者が、なかでも女性は78名に達した。結果は日本自由党が140名、日本進歩党が94名などとなり、自由・進歩の両保守政党が連立して吉田茂内閣を成立させた。
日本国憲法は第90臨時帝国議会の審議をへて、10月7日に日本国憲法は修正可決し成立し、11月3日に公布されたのであった。
昭和22年(1947)5月3日から日本国憲法は施行され、新憲法は国民主権や戦争放棄、そして基本的人権の保障を大原則と定めて、国会を国権の最高機関として位置づけられ民主的な国家への第一歩が踏み出されたのである。