安房地域からみた日米開戦
●安房地域からみた日米開戦●
昭和16年(1941)4月から近衛内閣は、南進政策や三国軍事同盟によって悪化した日米関係を打開するため、ワシントンにおいて日米交渉を開始した。外相松岡洋右は交渉開始直前に、独ソ戦による東西からの挟撃を回避しようとするスターリンと、日ソ中立条約を締結した。しかし、6月22日に独ソ戦が開始されると、軍部はソ連と戦いを想定して国境に大軍を派遣し、関東軍特種演習をおこなっている。そして、日米交渉を継続しつつも戦争の準備を完了させ、実質的な対米英開戦を決定していった。
10月になって、日米衝突を回避しようとした近衛首相は、日米交渉妥結の要件であった中国からの撤兵に反対する東条英機陸相と対立したまま、結局は辞職した。そして、強硬な主戦論を唱えていた東条内閣となったのである。11月5日の御前会議では、アメリカ側の国務長官の覚え書き(ハル・ノート)とは、全く妥協の余地のない日米交渉案が決定され、日米関係は決定的な破局をむかえるにいたった。
ところで、東京湾要塞地帯にはさまざまな軍事施設がつくられるが、なかでも館山海軍砲術学校は、安房地域にとっても重要な存在となった。海軍には海軍大学や海軍兵学校をはじめ、さまざまな兵種や兵務に関わって海軍独自の学校や養成機関があるが、そのひとつが主に艦船に配備されている兵器の操作技術を学ぶための横須賀海軍砲術学校であった。ここでは同時に陸上戦闘訓練もおこない戦闘員養成もおこない、必要に応じて臨時的な特別陸戦隊が編成されていた。陸上戦闘に関わる砲術や訓練の養成機関は、日中戦争のなかでも戦術上必要とされ、また間近に対米英戦争が想定されるようになると、養成機関を分けて専門の兵科と演習場を開設することにした。この間、対米英戦での戦場が太平洋での島々をめぐる陸上戦闘と想定され、またアメリカ海兵隊のような専門部隊や、ドイツにあった落下傘を使用する特殊部隊、そして部隊の指揮官などを養成する特別な学校が構想された。そのなかで太平洋諸島での上陸作戦を見た立てた適地として選定されたのが、房総半島南端の平砂浦海岸であった。実戦訓練にふさわしい海岸地形をもっているだけでなく、近くには館山海軍航空基地があることが好条件とされた。
1941年6月1日、陸上砲術の実地訓練を主な目的とした館山海軍砲術学校(以下、通称「館砲」と略)が開校し、後に指揮官養成の面でも、やはりアメリカ海兵隊が大学や高等専門学校卒業の予備士官を多くあてていたということで、海軍でも新たに予備学生を採用し下士官を養成する機関となっていった。
対米英戦での戦略において、海軍では落下傘部隊を編成してセレベス島メナドのランゴアン飛行場とチモール島クーバン飛行場を奇襲占領する作戦が画策された。このため「館砲」では最高機密をもつ特別陸戦隊の養成が課せられ、とくに落下傘部隊の指揮官養成とともに、全国から精鋭の陸戦兵士を選抜して1500名の落下傘部隊がつくられた。この訓練は開戦前の9月から約3ヶ月間、「館空」を使って開始された。館山湾の上空から多くの住民が見ているなか、「館空」滑走路を降下地点に猛訓練がおこなわれ、時としてパラシュートが開かず死亡事故があっても、降下訓練が止むことはなかった。落下傘降下の風景は、那古の人びとに対米英戦争が近づいている足音を感じさせていた。そして、開戦直前には出撃命令がでて「館空」から台湾にむけて落下傘部隊は出発していった。
昭和16年(1941)12月8日、日本政府は開戦にふみ切り、陸軍はイギリス植民地であるマライ半島北部コタバル泊地に奇襲上陸し、海軍はハワイ真珠湾を奇襲した。その日、日本政府は米英に宣戦を布告し、太平洋戦争がはじまった。翌年1月10日にメナド奇襲占領作戦は敢行され、多大の犠牲を払って飛行場を制圧し、海軍初の落下傘部隊による攻撃は成功した。この開戦直後における敵飛行場占領作戦の成功は、日本中に戦勝気分を植え付け、安房の人びとは、この地域がもつ軍事的な役割を強く認識することになる。
開戦後の日本軍は、陸軍主力を中国大陸においていたが、日本軍の作戦展開ははやく、開戦の翌年5月までに香港・マライ半島・シンガポール・ビルマ・オランダ領東インド諸島(蘭印)・フィリピン諸島などを占領し、その占領圏はおよそ東西5千㌔、南北6千㌔いう広大な地域と水域に及んだ。
国民の多くは、緒戦の段階の日本軍の勝利に熱狂した。当初、日本はこの戦争を米英の脅威に対する自衛措置と規定していたが、しだいに欧米の植民地支配からのアジア解放とか、「大東亜共栄圏」の建設といったスローガンにしばられ、戦域は限りなく拡大していった。昭和17年(1942)4月に、東条英機内閣は戦争翼賛体制の確立をめざし、5年ぶりの総選挙を実施し、その結果は政府の援助を受けた推薦候補が絶対多数を獲得して、選挙後に翼賛政治会が結成され、議会は政府提案に承認を与えるだけの機関となった。
連合国はドイツ打倒を第一とし、当初は太平洋方面への軍事力投入は抑制されたが、アメリカによる軍事的優位の確保ははやく、この年6月のミッドウェー海戦で日本側が大敗北を喫し、制海・制空権を失っていった。ここで戦局が大きく変わり、この年の後半からはアメリカの対日反攻作戦が本格化していった。その結果、日本側は、翌年9月の御前会議で戦略を再検討して、防衛ラインを千島・小笠原・マリアナ・カロリン・西ニューギニア・ビルマを含む絶対国防圏まで後退させた。11月には東条内閣が占領地域の戦争協力を確保するために、各地域の代表者たちを東京に集めて大東亜会議を開催し、「大東亜共栄圏」の結束を誇示した。しかし、欧米列強から替わっただけの日本の占領支配は、アジア解放の美名に反して、戦争遂行のための資材・労働力調達を最優先していたので、住民たちの反感や抵抗が次第に高まっていった。
昭和19年(1944)7月になって、マリアナ諸島のサイパン島が陥落し、絶対国防圏の一角が崩壊すると、その責任を負って東条内閣は総辞職したのであった。
●戦時下における安房の軍事施設●
昭和17年(1942)4月にアメリカ側は日本本土空爆という奇襲作戦を敢行した。この爆撃隊の隊長名を取った「ドゥーリトル初空襲」は想定外のことで軍部を驚愕させ、以来、本土防空体制の強化が叫ばれた。房総半島や伊豆半島、伊豆諸島などを中心に陸海軍は、レーダー警戒網を整備していった。その基地は銚子(要地用警戒機4基・高度測定付加受信機2基)、勝浦(移動用警戒機)、千倉(機種不明)、白浜(要地用警戒機地上固定タチ2号4基・移動用警戒車両積載タキ1号・高射砲用高度測定付加受信機)、下田(要地用警戒機2基)、八丈島(要地用警戒機4基)などであった。
海軍では、東京湾要塞地帯内にある館山海軍航空隊(以下、「館空」と略)や洲ノ埼海軍航空隊(以下、通称「洲ノ空」と略)の防御のために市内各地に九か所の防空砲台を構築し、高角砲(高射砲)22門・探照灯7基・測距儀2基・電探13号2基などで防御体制を敷いた。その内訳は、館山城山砲台(高角砲8門、探照灯1基、測距儀2基)、大賀二子山第一砲台(高角砲4門)、館野大網第二砲台(高角砲4門、機関砲4基、探照灯2基)、八幡砲台(高角砲4門、高射器1基)、船形砲台(高角砲2門)、香寺山砲台(探照灯2基)、神戸布沼砲台(探照灯2基)、北条砲台(配備不明)、笠名砲台(配備不明)であった。
これらの海軍施設以外では、「館空」関係で笠名弾薬庫・城山送信所・上野原送信所・飛行機掩体壕(40ヶ所)・赤山地下壕(司令部、兵器庫、病院、燃料庫など)があり、「館空」に隣接する第二海軍航空廠館山補給工場では、宮城地区防空壕(10ヶ所以上)・「赤山」魚雷庫(3カ所)を設置した。館山砲術学校関係では、東砲台(高角砲6門、測距儀1基、聴音器1基)、西砲台、南砲台が設置された。そして布良大山レーダー(探信儀)基地は、三機種の対空見張用レーダー各1基と対艦見張用レーダー1基を配備し、太平洋地域をにらんでいた。
ところで、「洲ノ空」は、昭和18年(1943)6月、横須賀海軍航空隊から独立して開隊した全国でただ一つの兵器整備練習航空隊であった。操縦以外の航空機に関わる専門技術を学ぶ養成機関であり、この「洲ノ空」が急遽開隊したのは、当時アメリカ軍の航空兵器が高性能となり、戦地からはそれに対抗する航空兵器の開発や改良が求められていたからであった。兵器開発の技術者ばかりでなく、高度になってきた航空兵器を管理・整備する兵士の養成や訓練が急務とされ、指導教官には戦地から実戦経験者を置いた。
専門分野は、射爆・無線・写真・光学・電探・雷爆などに分けられ、全国や戦地から多いときには、1万数千名が「洲ノ空」にいたといわれる。昭和19年(1944)の学徒出陣に関わる予備学生をはじめ、飛行予科練習生など各分隊ごとに専門教育が実施されたが、とくに全国の理系大学や高等専門学校から招集された優秀な学生たちは、戦争末期まで特攻兵器の開発や整備技術に携わり、本土決戦にのぞむ最先端の軍事技術を担っていたとされる。「洲ノ空」の施設・設備をみると、練兵場を中心に本部庁舎・兵舎や講堂が主な建物で、戦闘機用機銃の射撃場や練習機・教材飛行機の格納庫をはじめ、木工鉄工作場・道場・士官宿舎・酒保・ボイラー・烹炊所・倉庫・浴場・神社・相撲場などさまざまな施設で構成され、一部はコンクリート塀などで囲まれていた。
新兵教育は、2ヶ月間にわたって教練から陸上戦闘まで、平砂浦演習場での訓練を受けるとともに、1日おきに水泳訓練、体育、手旗、軍歌演習のほか国語や数学の座学もあった。兵士にとって楽しみな食事は、食器に平盛りされた麦飯で、副食はラッキョウの漬物や人参の葉の味噌汁、海水のようなすまし汁であったという。
兵器整備練習航空隊普通科の射爆兵器班の教育訓練をみると、戦闘機攻撃用7.7㍉機銃と20㍉機銃の分解結合、13㍉機銃の取扱い、カム調整、装填射撃の方法、爆弾の構造、模擬爆弾による爆装投下、毒ガス兵器に関する学科、実験解毒(催涙ガス・くしゃみガス・びらん性ガス)、弾道爆弾の落下速度に関する学科、航空写真機、照準器、航法兵器の簡単な取扱い、無線モールス信号などを履修したとされる。
昭和20年(1945)4月になると、「館空」に隣接していたので洲ノ空」は一段と空襲が激しくなり、館山各地に専門分野ごとに分散し教育訓練の継続となった。そのなかでも無線班は、館山市の小原地区稲原(タニヤツ)に移転され、兵舎や講堂が建てられ関係機材が運び込まれたのであった。