自由民権運動と安房の人びと
●自由民権運動と安房の人びと〜那古地区からみる●
安房でも全国の民権運動の動きに呼応して、長狭郡奈良林には浩鳴社、平郡奥山に改進社や大井の日進社、そして平郡平久里中村に日進社や資友社などが結成された。千葉県内では57社を超える結社が組織され、3万2千名以上の人びとが請願や建白書に関わっていたという。この数は高知県の約4万8千名に次いで、全国で第2位の数字であることからみて、明治期において房総の人びとが全国のなかで、どのような政治的な位置を占めていたかを裏付ける資料といえる。
1881(明治14)年、桜井静によって『総房共立新聞』が創刊されると、県内各地の演説会や県会審議の様子など、自由民権に関する記事が豊富に掲載され運動を大いに励ますことになる。なかでも、安房での民権運動に大きな影響を与えたのが、東京から来た民権派ジャーナリストたちによる演説会や討論会の開催であった。たとえば那古では、1884(明治17)年に那古寺観音堂において、江戸期の農民一揆「万石騒動」の三義民と勝山藩領であった忍足佐内を顕彰する「義人追悼会」という形で、自由民権運動の精神を伝える演説会が開催されている。
当時の「自由新聞」には「四方より参集せし者無慮百有余人あり。其の会員にあらずして来観なせる老若男女、子守、童の類に至りては枚挙に遑あらず。さしもに広き堂の場内もひしひしと押しつまるばかりの群衆なり」と盛会であった旨のことと、もうひとつこの会には「日本立憲政党新聞」の社長であり、『東洋民権百家伝』(岩波書店)の著者である小室信介が参加し発言があったことが記載されている。民権派ジャーナリストであった小室信介では、岐阜での演説題名であった「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、後に「板垣死すとも自由は死せず」と板垣自身による言葉として世間に広まったといわれている。小室は板垣退助の女婿である。
「義人追悼会」開催の幹事は、自由党員で36歳の川名七郎であり、医者であった31歳の加藤淳造であった。加藤淳造という人物は、1852(嘉永5)年に安房国平郡平久里中村の地で、祖父霞石や父玄章も医者という家系で生まれた。淳造も医学の道に進むが、当時の自由民権思想を学び、1880(明治13)年に平群で医院を開業する傍ら、翌年には民権結社資友会を結成して、板垣退助や植木枝盛、大井憲太郎らとの交流を深めていった。後に1884(明治17)年の加波山事件に関わり投獄されている。18928明治25)年に第2回衆議院選挙で当選して、地域では安房郡医会会頭などを歴任し、1914(大正3)年に没している。
ところで民権活動家として著名であった植木枝盛は、1890(明治23)年まで安房には13回も訪れ、関東では最も多く遊説している地域であった。安房における演説会の数を見ると、長狭郡20数回、平郡10数回、そして安房郡と朝夷郡が各数回開催されたといわれ、安房は政治や自由民権に対する関心が比較的高かった地域といえる。郡役所があった北条村では、加藤淳造はじめ、かつて郡役所の官吏であり海運業に携わっていた正木貞蔵や、千葉県会議員である吉田与兵衛などが発起人となって数度の演説会や懇談会を開催している。演説者には『日本開化小史』の著者田口卯吉や、大隈重信とともに立憲改進党を創立し早稲田大学の前身である東京専門学校を設立した小野梓、そして1881(明治14)年に鴨川に民権結社浩鳴社を設立した佐久間吉太郎などがいた。
この頃、全国各地の結社代表が署名した天皇宛の国会開設請願書を太政官や元老院に提出しようとしたが、政府は受理せず、逆に集会条例を制定して、民権運動を厳しく取り締まろうとしていた。そんな折に『自由新聞』と『朝野新聞』に注目すべき記事が掲載されている。その記事には平郡那古村の芸妓鈴木トキが、隣村の百姓一揆の指導者の顕彰碑を建設するために寄付金を差し出し、さらに自由党事務所に入党申し込みをしたという内容であった。千葉県の自由民権運動のなかで女性が登場するのは数少なく、全国的に見ても、芸妓という職業での自由党加盟の申し込みは、波紋を呼んだことであろう。この年の自由党員名簿に掲載されていないところを見ると、入党は認められなかったのであろう。多くの旅人や参詣者で賑わっていた那古寺周辺の宿泊施設や料理店を会場にして、東京から訪れる人びとと地元住民との政談会があったと思われる。そこには職業や性別を問わず自由民権の思いをもった交流があって、那古の人びとは、足もとから日本の政治のあり方や社会の姿を見つめる意識を深めていたのではないだろうか。
なお、那古寺境内には「明治四十三年有志門生建之」と刻まれた三尾重定の墓碑がある。この人物は漢学や国文学の著書(『和漢作文大成』『明治女用文』『帝国軍歌選』など)があり、那古寺で弘文館塾という私塾を開いていたといわれ、1889(明治22)年には、安房郡選出県会議員の加藤又市が所蔵していた「万石騒動」関係の古文書を編纂して、自由民権運動に関連した『民権嚆矢 房陽奇聞 一名民事ノ魁』を出版している。