里見改易後の旗本支配
●里見改易後の旗本支配●
慶長19年(1614)に里見氏が改易されると、幕府はしばらく佐貫城主内藤政長に安房国の管理をさせていた。その後、安房国内の石高の調査をやり直して、旗本や小大名たちに配分することになったが、その全権を担ったのが代官中村弥右衛門尉吉繁と補佐役の手代熊沢水三郎左衛門忠勝であった。
岩槻藩主の高力清長の家臣から幕府代官に取り立てられた中村弥右衛門は、元和元年(1615)4月頃、船乗りを集めて館山の新井浦と楠見浦から、大坂の陣に向けての兵糧米輸送を命じている。また、補佐役の熊沢三郎左衛門や里見氏に仕え館山城下町建設の責任者であった名主岩崎与次右衛門には、城下での商人支配や米売買の管理、あるいは江戸城への魚の献上などをまかせていた。さらに里見氏支配時の寺社所領の寄進状を提出させ、翌年幕府の許可のもと中村弥右衛門の名によって、98か所の寺社に里見氏支配とほぼ同じ所領を認めた。年貢も改易のあった慶長19年(1614)にさかのぼって渡している。
元和4年(1618)の8月末から10月上旬にかけて、安房国全域において検地が実施され、安房国は9万2600石と評価された。寛永元年(1624)に中村弥右衛門が没している。その後、熊沢三郎左衛門に代官事務は引き継がれ、おそらく寛永19年(1642)頃までに、はぼ旗本や大名への所領引渡しを終えたのではないかと思われる。年末には熊沢三郎左衛門への慰労の意味か、幕府が200俵の扶持米を与えたという記録がある。
安房国の検地が元和4年(1618)に終わり、年貢石高が把握されると、幕府支配から徐々に旗本や小大名に配分されていった。その最初に受け取ったのが、下総国生実で5千石を知行して、慶長19年(1614)に館山城受け取りに関わった旗本西郷正員であった。元和6年(1620)に長狭郡・朝夷郡に1万石を与えられた正員は、東条村に陣屋を設けて東条藩とし、信州上田に移った元禄5年(1692)まで、安房支配をおこなっている。これ以降、寛永年間にかけて、5000石を越える旗本を中心に所領が分け与えられていった。
大名では、元和8年(1622)に内藤清政が3万石で勝山藩をおこしたものの、翌年に清政が没して一時廃藩になった。寛永10年(1633)になると、常陸国玉取藩主堀利重に1300石余が、寛永15年(1638)には、10万石の松本藩主堀田正盛に1万2千石余が与えられている。この年に駿府藩主徳川忠長の改易に連座して蟄居していた屋代忠正と三枝守昌が許され、それぞれ1万石の大名になり、屋代氏は北条村に陣屋を置き北条藩をおこしている。
また旗本では、御船手が内房の海岸沿いに所領が与えられ、なかでも小浜守隆は、元和8年(1622)に内房の南無谷から岡本周辺に1500石を、また石川政次は、寛永2年(1625)に館山城下を含む館山湾南岸周辺に4500石を、そして石川政次の弟の重勝は、寛永10年(1633)に館山湾北岸の船形や那古周辺を中心に1000石が与えられたのであった。この年の4月には、一斉に所領の充行が行なわれ、石川重勝のほかにも田中・大久保・保科・本多・酒井・内藤・三枝・植村・高木などの旗本に、寛永19年(1642)12月には、さらに石川・北条・松平・上野などの旗本に所領が与えられて、ほぼ安房国の所領配分は完了したのであった。
その結果、幕府の直轄地は2200石ほどになり、寺社に与えられた朱印地も2200石余で、残りの8800石余は、ほとんどが旗本と小さな大名たちに分け与えられた。安房国内に陣屋のある大名が2家、安房以外に陣屋か城をもつ大名が2家、そして21人の旗本たちの所領になったのであった。
●館山藩の動き●
里見の改易後、館山にはしばらく藩が置かれなかった。天明元年(1781)に徳川家治のもとで出世を重ねいた田沼意次とともに、権勢を振るった稲葉正明は、それまでの7千石から安房国と上総国のなかで3千石を加増されて、1万石の大名となり館山藩は再び立藩した。天明5年(1785)には、さらに安房と上総国内で3千石が加増され、翌年の家治の死去によって田沼が失脚すると、正明もその余波を受けて3千石が没収され、出仕停止処分となった。寛政元年(1789)に正明は隠居して、子の稲葉正武が継いだ。文化9年(1812)には、正武は隠居して家督を子の稲葉正盛に譲ったものの、正盛は文政2年(1819)に大坂加番中に29歳の若さで死去し、翌年に長男の稲葉正巳が後を継いだのであった。
この稲葉正巳は有能な藩主であり、幕末の動乱の中で徳川慶喜の信任を得て若年寄、老中格、海軍総裁、陸軍奉行、大番頭、講武所奉行などを歴任して、幕府海軍の創設や外交問題などに大きな功績を残している。明治元年(1868)の戊辰戦争では、正巳は幕府の役職を全て辞して隠退し、家督を稲葉正善に譲ったうえ、新政府に恭順しようとした。しかし、榎本武揚が率いる幕府海軍や上総請西藩などの幕府軍が侵攻してくるなか、館山藩はその対応に苦慮したものの、それを乗り切って新政府に恭順していった。正善は翌年の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1891)の廃藩置県では館山藩が廃され、正善は県知事となった。その後、館山藩は館山県となり、同年11月14日に木更津県に編入されたのであった。
●安房勝山藩の動き●
安房勝山藩の前期は内藤清政から3代7年間と短いが、後期は酒井忠国の支配から廃藩置県までの約200余年間の治世であった。寛文8年(1668)、安房と越前、上州に所領をもつ小浜藩主酒井忠直は、甥にあたる忠国に安房平郡や越前敦賀の所領1万石を分与したことで、酒井家による安房勝山藩がはじまった。藩祖酒井忠国の安房国での所領は、現在の鋸南地区をはじめ富山や三芳を含む平郡19か村4500石余といわれる。天和3年(1683)に5千石加増されているが、この時に安房国内では三芳や富浦地区の8か村とともに、小原村が安房勝山藩領に加えられたのであった。同年には忠国の子忠胤が2代藩主となった時に、弟の忠成には鋸南や富山地区の一部の3千石を分与している。以来、安房勝山藩は1万2千石を所領とし、9代藩主忠美の治世であった明治2年(1869)には加知山藩と改称している。
ところで、酒井忠国の祖父忠勝は、老中や大老職として将軍秀忠・家光・家綱に仕え、幕藩体制を強固なものにしていった幕閣の一人であった。寛永11年(1634)には、若狭国小浜藩12万3500石として入封し、その後、長男忠朝が家督を継ぎ将軍のそばにあって将来を嘱望されていた。しかし、寛永14年に突如として御役御免となり、その後は許され出仕はしたものの、持病もあり蟄居生活が続き、結局は家光から忠朝の廃嫡を命じられたといわれる。忠勝は、明暦2年(1656)に四男忠直が家督を相続し、仏門に入った忠朝は、その後藩領であった平郡市部村に移ったとか、鋸南下佐久間に仮住まいをしていたとかが伝えらているが、今もって不明のままである。
なお、忠国が天和3年(1683)に5千石加増された理由は、綱吉の将軍襲職祝賀のため第7回の朝鮮通信使が来訪した際に、本誓寺客館において副使補佐役である洪世泰との筆談による対談を『筆語』という冊子にまとめた功績といわれている。父忠朝は林羅山に朱子学を学び高い学識をもっていたといわれ、忠国も自ら「静脩齊」と号し、常に静かに平らな心を持つことを座右の銘にしていて、学問を好み高い教養をもつ儒者の大名といえた。