15世紀における安房国〜鎌倉府と房総里見氏の登場
●15世紀における安房国●
15世紀前半、安房国は鎌倉府が直接支配する所領が多く、鎌倉の有力寺社や鎌倉公方の近臣に支配を任せていた。安房国守護も直接、足利氏の影響力が及んだ地域であり、鎌倉公方の側近である結城氏や木戸氏などが支配し、関東管領上杉氏も鎌倉公方の補佐役といいながら、越後・上野・武蔵・上総・伊豆などで守護を勤め、東国の一大勢力となっていた。
なかでも、最初に関東管領になった山内上杉家の上杉憲顕は、越後国と上野国とともに安房国の守護にもなり、その子憲方も安房国の守護であり、以後この一族から安房守を襲名していったものが多く、安房国に影響力を持つようになった。朝夷郡にある朝平郷南方を所領する上杉氏の記録をみると、応永3年(1396)以前は、山内上杉家の上杉憲定の所領であった。また、明徳元年(1390)前後に、鎌倉公方の側近木戸氏が守護だったとき、守護代は鎌倉の港六浦を管轄し、海上交易を支配していた上杉憲方の家臣大喜光昌という。足利系の守護のもとに実務者を配置していた上杉氏は、安房国内の港湾拠点を支配して、交易などを把握していたと思われる。そして、伊豆国守護を兼ねて、伊豆半島や大島の海上交通路を押さえている山内上杉氏は、さらに房総半島南端部を勢力圏に入れることで、東京湾岸や太平洋沿岸の交易に大きな影響力を広げていた。鎌倉公方足利氏の所領が多いなかで、足利上杉両派がぶつかるのは当然にも想定された。白浜では上杉氏の家臣であった木曽氏が、本拠地であったと思われ、それと対抗するように足利氏は家臣の簗田氏などを伊戸や白間戸、あるいは久保郷などに配置し、白浜を取り囲んで上杉氏を牽制していたといえる。
こうして鎌倉公方と関東管領との対立によって、関東から戦国時代の幕が開いていったが、その15世紀の中頃、房総半島南部の安房に登場したのが里見氏であった。東京湾岸と太平洋沿岸を押さえ、海上交通路を握る戦略的な地域が安房の地であり、鎌倉期から室町期にかけては、東京湾を隔てた三浦半島に本拠を置き海上交易に深く関わっていた三浦一族が進出していた地でもあった。また、鎌倉にあって権力を握ってきた北条氏や足利氏、そして上杉氏などは、安房の武士たちを使って地域支配をおこない、とくに湊を通じて海上交易の拠点を勢力下においていたのである。
●鎌倉府と房総里見氏の登場●
鎌倉公方と関東管領という政治体制のなかで、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立から、戦乱が拡がっていった。歴代の鎌倉公方は、室町将軍の地位をねらって将軍家と対立することが多く、鎌倉公方足利持氏は正長から永享に元号が替わっても新しい元号を使用しないとか、もともと鎌倉公方の嫡子は将軍の名から一字を貰って名付ける慣例を拒否するなど、室町将軍を挑発する態度をとっていた。
鎌倉公方への強硬派であった足利義教が将軍になると、足利持氏を滅ぼすために、京都御扶持衆とよばれる将軍派の関東の豪族や反持氏の関東足利一族たちに働きかけていった。関東管領上杉憲実は対決回避に努めたが、安房国内でも所領をめぐる抗争があったので、憲実の努力は持氏への不信となっていった。結局、憲実は幕府に救援を求めたことで持氏との対立は、将軍義教と上杉憲実によって準備された軍事行動が、永享10年(1438)の永享の乱であった。持氏を支援した豪族たちは次々に寝返って、翌年には結局、鎌倉の永安寺で持氏は自害し、側近の里見刑部少輔家基も同様に自害した。
この乱によって鎌倉公方による関東支配は、事実上終わったのであった。嫡子義久はこの乱で自害し、そのほかの子どもたちも各地の持氏派を頼って落ちのびていった。足利持氏が死んで幕府が勝利したとはいえ、上杉氏に従わない勢力も多く、関東全域で足利派と関東管領上杉派との間での激しい抗争は続いていった。
永享12年(1440)になり、持氏の遺児のなかのうち、3人が下総国結城の結城氏朝のもとで、反幕府・反上杉の勢力を結集して立ち上がった。この結城合戦と呼ばれる戦いには、里見修理亮という人物が登場している。結城周辺の地域では、鎌倉公方側近の奉公衆が所領を与えられ、なかでも常陸国宍戸荘には、里見刑部少輔家基や里見四郎などが所領をもち、里見修理亮も宍戸荘に所領をもった奉公衆といわれている。結城城での戦いは結局、8ヶ月に及び、翌年には落城して京都まで送られた結城方の首16人のなかに里見修理亮の首もあり、上洛に値する家格をもった人物であったという。
足利氏と同族の里見氏は、関東足利氏の御一家に準じており、里見修理亮は鎌倉公方側近の奉公衆として、家基死後の里見一族の指導的な立場にあった人物とも考えられる。結城合戦に敗北し足利持氏の遺児を失っても、反上杉の火種は残って結城合戦直後から関東を支配する上杉氏に対しての反乱は続いていた。個々の勢力は、反上杉派の総帥としての足利氏の血統が必要であり、持氏の遺児であるという受皿は残っていた。そのなかで足利成氏は、関東足利氏の家督を受け継いでいったのである。