室町幕府と鎌倉府〜鎌倉寺院と安房国領

●室町幕府と鎌倉府●

足利尊氏によって室町幕府が開かれると、細川氏や斯波氏、畠山氏などの一族は、将軍の補佐役である管領職や各国の守護に治まり、また、今川氏や一色氏などの一族も守護大名などに就いていった。尊氏の孫足利義満が三代将軍になる頃に、南北朝動乱の影響も次第におさまって安定した。

幕府は、将軍権力を支える軍事力の育成につとめ、古くからの足利氏の家臣や守護の一族、あるいは有力な地方武士などを集めて奉公衆とよばれる直轄軍を編成していった。奉公衆はふだん京都で将軍の護衛にあたるとともに、将軍の直轄領である御料所の管理にあたり、守護を牽制する役割を果たしていた。そして鎌倉府には、渋川氏や吉良氏のような足利氏の一家、そして鎌倉公方と強い主従関係で結ばれた奉公衆には、一色氏や渋川氏などの足利一門、あるいは木戸氏や簗田氏などの古くからの足利氏の家臣や、二階堂氏などの鎌倉幕府の官僚出身、さらには佐竹氏や那須氏、結城氏、千葉氏といった外様の北関東の武士たちが関わっていった。

明徳三年(一三九二)に義満は、南朝側と交渉して南北朝の合体を実現し、内乱に終止符を打つとともに、全国の商工業の中心であり政権の所在地でもあった京都の市政権を掌握し、また諸国に課する段銭の徴収権などを握って、統一政権としての幕府を確立したのである。義満が京都室町の「花の御所」邸宅で政治をおこなったので、室町幕府と呼ばれるようになった。

ところで、幕府の地方機関として足利尊氏は、鎌倉に関東八ヵ国と甲斐・伊豆の合わせて一〇ヶ国を管轄する鎌倉府を設置し、鎌倉府のトップを鎌倉公方として、尊氏の子基氏を就任させた。以後、氏満・満兼・持氏・成氏と基氏の子孫が就任し、その系統は関東の足利氏として、東国武士の象徴という存在になっていった。鎌倉府には、補佐役としての関東管領がおかれ、足利尊氏の母の実家である上杉家から代々就任することとなった。鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、権限も大きかったため、やがて京都の幕府としばしば衝突するようになった。

●【鎌倉寺院と安房国領】●

≪1.瑞泉寺や円覚寺の所領≫
嘉暦二年(一三二七)、鎌倉幕府の官僚二階堂氏が夢窓疎石のために瑞泉寺を創建し、元徳三年(一三三一)には疎石自身が観音殿を建立している。貞治六年(一三六七)には、足利基氏の菩提所となり、その年に足利氏満と基氏の菩提を弔うために、鎌倉瑞泉寺には群房庄が寄進されている。応永二五年(一四一八)、足利義持は今川範政に群房庄を還補し、翌年には義持が安房国国衙職を熊野山新宮神宝の要脚として寄進している。

円覚寺仏日庵は、貞治二年(一三六三)に北条氏廟所の塔頭になり、貞治四年(一三六五)には、足利基氏が安房郡の長田保西方を仏日庵に寄進している。この仏日庵領が、応安二年(一三六九)に安西太郎左衛門入道によって押領されたので、関東管領上杉朝房は守護結城直光に命じて押領を止めている。そして、応安八年(一三七五)には、足利氏満が安房国を円覚寺造営料所として、翌年には、安房ほか三国の棟別銭を円覚寺造営料として寄進している。至徳二年(一三八四)に氏満は、三門・方丈造営料として安房国ほか四ヶ国の棟別銭を寄進している。応永八年(一四〇一)には、再び仏日庵領が丸孫太郎入道によって押領されたので、鎌倉府に訴えている。奉行明石加賀守は丸氏を召喚したが応じなかった。応永一二年(一四〇五)に仏日庵は重ねて鎌倉府に丸氏の押領停止を訴えている。

≪2.建長寺と里見氏≫
建長五年(一二五三)に北条時頼が建長寺を創建すると、招かれた蘭渓道隆が開山している。鎌倉五山の第一位となった建長寺は、南宋五山の配置をもち参道脇に柏槙の類を前栽として配する宋朝禅刹様式の伽藍をもった寺院で、宋朝の純粋な禅風を導入し日本で初めての禅寺と称して禅の専門道場になっていった。貞和四年(一三四八)、足利義詮は建長寺住職の竺仙梵僊の死去に際して、浄智寺内の塔所楞伽院に正木郷を寄進したという記録がある。この住職は中国明州の宋僧で浄智寺の住職でもあって、鎌倉五山文学の古林派の指導者といわれている。なお、一六四世住職であった玉隠英與(一四三二〜一五二四年)は、鎌倉五山文学の復興期に活躍した人物で、万里集九や道興准后、あるいは相国寺の雪舟と交流があったとされる。永正六年(一五〇九)には、西来庵(蘭渓道隆の塔所)再建のため修造大勧進している。さらに、稲村城を本城に安房国主であった里見義豊と深い親交があったと『玉隠和尚語集』に記載されている。そのなかで玉隠は義豊のことを孔子や孟子の学問に励み、和歌や吟詠にも通じていたので「文武兼備」の人物とし、それも乱れた世に稀に見る貴公子ということで「濁世の佳公子」と賞賛している。安房の地にあって、鎌倉を代表する文化人との交流が深くあったことを示唆している。

≪3.極楽寺と萱野遺跡≫
安東郷内朴谷村には極楽寺の宝塔院領があった。応永三〇年(一四二三)に、宝塔院領安東郷内朴谷村の安東又三郎跡を真田刑部左衛門尉が押領したので、鎌倉公方足利持氏は守護上杉定頼に排除を命じたという。なお、館山の館野地区には、近年鎌倉極楽寺で使用した瓦類が出土した萱野遺跡がある。

正嘉三(一二五九)年に、律宗の西大寺流極楽寺は創建され、弘長二年(一二六二)には、忍性が鎌倉の極楽寺に入って、幕府の信任のもとで慈善事業をはじめている。忍性の職務は幕府で保奉行人と重なり、幕府行政における現業分野を西大寺流極楽寺が担っていたと思われる。忍性の入寺以後、海岸の前浜は極楽寺の権益となって、和賀江湊の管理や関料の徴収をおこなったといわれている。このような極楽寺の動きが、全国的な規模にあった可能性があり、忍性などの僧侶が職能集団を率いて井戸掘りや橋作りをはじめ、石材加工、鋳造、瓦作りなどに従事していたと考えられている。

≪4.熊野三山と安房国≫
養和元年(一一八一)、後白河上皇は新熊野社に燈油料所として群房庄を寄進しているが、幕府も熊野神領の維持運営や上皇の熊野詣を支援している。建久六年(一一九五)には、群房庄の地頭が年貢を横領したので、新熊野社が訴えて地頭を罷免したという。

貞和二年(一三四六)、光厳上皇は新熊野社別当を相伝していた鶴岡八幡宮供僧泰豪に群房庄を安堵している。文和三年(一三五四)には、熊野新宮が徳治元年(一三〇六)に焼失したので、本社造営のため光厳上皇は、安房国と遠江国を新宮造営所料として寄進して、足利義詮にその給付を命じた。安房国では、国衙の近くの土地が充てられていたと思われる。康安元年(一三六一)には、改めて安房・遠江両国の所務遂行を図るために、武家伝奏が出され、貞治五年(一三六六)に、熊野新宮社殿は再建されている。足利義持は、応永二六年(一四一九)に、安房国国衙職を熊野山新宮神宝の要脚として寄進している。

鎌倉期以来、聖護院門跡が熊野三山検校職になるのが慣例化していたが、聖護院門跡が足利将軍家と繋がっていくなかで、熊野三山検校の役職が、熊野修験の本山を統轄する立場になっていったという。聖護院門跡二二代目であった道興准后は、寛正六年(一四六五)から文亀元年(一五〇一)まで、熊野三山検校として在職し、全国各地をめぐって熊野先達の活動を安堵しながら、自己の傘下にしていったと思われる。道興准后の『廻国雑記』には、文明一八年(一四八六)に、清澄山や那古寺、そして鋸山に参詣した後、河名より三浦半島の三崎に渡って浦川の湊を経て鎌倉を訪れたと、東国巡歴のことを記載している。那古寺の参詣では「なごの浦の 霧のたまえにながむれば ここも入日を洗ふ白浪」と、那古の浦を詠んで、後の鎌倉では五山を参詣している。もし、建長寺住職玉隠英與との交流があれば、安房での旅の様子や国主里見義豊のことなどが話題になったかもしれない。

ところで、館山地域のある神社で一番多いのは、熊野三山の神を祀る熊野神社である。続いて諏訪神社の一〇社や八幡神社七社、神明神社七社という。長須賀地区をはじめ宮城・加賀名・坂田・佐野・竜岡・飯沼・宝貝・安東の各地区には、小原の若一神社や出野尾の十二所神社のように別の名前で祀った熊野信仰を示す神社が一一社存在し、また熊野権現や熊野様と呼ばれ御宮は、正木をはじめ沼・犬石・東長田・西長田・腰越・水岡などに存在している。

全国三千社近くの熊野神社のうち千葉県では、二六〇社を超える数が鎮座し、全国二位を占める熊野信仰圏といわれる。鎌倉期や室町期では、熊野の御師の関わりが深く、とくに紀伊半島と海上交易でつながっていた房総半島は、平安末期に京都の新熊野社の所領支配で、また南北朝期から室町期にかけては、安房国自体が熊野新宮(熊野速玉大社)の造営費用を賄う国に指定されていたことで、さらに江戸期では、紀伊半島からの漁業者などの地域交流によって、房総には熊野信仰が広がっていったといえる