青木繁の《海の幸》と布良

1882(明治15)年、福岡県久留米生まれ。1904(明治37)年夏、東京美術学校を卒業した青木は、画友の森田恒友、坂本繁二郎、福田たねとともに、小さな漁村・房州富崎村布良(現在の千葉県館山市)を訪れています。帝国水難救済会布良救難所看守長・小谷希録宅に2ヶ月近く寝食の世話になりながら、多くの作品を描きました。エネルギッシュな漁師たちの姿に鼓舞され、描かれた代表作品は、神話の「海幸彦山幸彦」にちなみ、《海の幸》と題されました。 3年後に描かれた《わだつみのいろこの宮》とともに、後年には国の重要文化財となっています。

この地で結ばれ、懐妊した福田たねを伴い、翌年には焦心に駆られて再度この地を訪れ、伊戸の円光寺に投宿しています。『古事記』を読みふけり、安房神社をはじめとする神々のふるさとの姿にふれて再起し、円光寺では板戸に力強い焼き絵を描いています。 現在、この地に残っていないのが残念です。

誕生した男児は《海の幸》にちなんで幸彦と名づけられますが、入籍をしないまま2歳で別れます。 故郷に戻った青木は放浪生活の末、病に倒れ、1911(明治44)年に28歳の若さで亡くなりました。 成人した遺児・幸彦は、『笛吹童子』で有名な尺八奏者・福田蘭童として活躍。 また、蘭童の子・石橋エータローは、クレージーキャッツの一員として一世風靡した後、料理研究家として活躍。 芸術家であり海を愛する血筋は、三代にわたって流れていたようです。

(左写真は『画家の後裔』

1979年講談社刊より)

下位セクション

館山賛美の絵手紙
青木繁は、1904(明治37)年8月22日、 房州富崎村字布良・小谷「喜六」(希 […]