コロニーとして誕生した「かにた婦人の村」
〜創設者深津文雄牧師の夢の実現〜
天羽道子(かにた婦人の村施設長)
はじめに
「かにた婦人の村」は売春防止法による婦人保護施設の中で、全国唯一の長期施設として1965年4月1日に創設されました。先ず、その創設の原点を創設者深津文雄牧師の思想と、若き日より抱き続けられた夢の中に求めていきたいお思います。
Ⅰ.深津文雄牧師について
1909年11月22日、福井県敦賀町の日本基督教会敦賀伝道所で、牧師深津基一・隆子夫妻の次男として誕生。しかし3年後に3歳年上の兄を亡くし、その翌年妹の誕生の折に母を産褥熱で失い、更に小学校5年、11歳で父を亡くして妹と二人孤児となられた。旧満州大連において。
1927年大連第二中学校を卒業し、明治学院神学部予科英文学科に入学。グレゴリ・バンドでバスを歌い、木岡英三郎先生に師事し、教会合唱団バッハ・コアイアに入り秀でた才能を発揮。また、四重合唱団をつくって活躍。
英文科から神学本科(日本神学校)へ。この神学校三年間に抱かれた疑問が、生涯をかけた「イエスの追及」となり、畢生の課題とされた。そして、後年、「底点志向者」としてのイエスに辿り着き、それを追う日々であった。
1993年神学校卒業後、教職を辞退し、既成教会に入ることを拒み続け、牛込教会長老のまま自宅で聖書講義。翌年3月東京大学の石橋教授の下で旧約学を専攻。
1935年板橋区茂呂町で茂呂塾日曜学校を始め、今日茂呂塾保育園として創立70年を迎えようとしている。
一方37年より日曜学校新校舎建設資金を得るため、東亜伝道会宣教師の助手となり、普及福音上富坂会(文京区)を再開し、41年に按手礼を受け、正教師として上富坂教会牧師となる。「これこそ人知のそとに」ある摂理というほかない」と、上富坂を18年間牧会。
この間、50年に「日本聖書学研究所」が始まり、奉仕女(ディアコニッセ)運動も起こり、54年ベテスダ奉仕女母の家の誕生となった。
しかし、ここで三重苦を克服したヘレン・ケラーとの出会いを挙げなければならない。1929年明治学院在学時代に、全盲で日本最初の女子大生となった斉藤百合に頼まれてその書記となり、後に斉藤が起こした陽光会、更に盲女子高等学園の仕事にも関わり、1937年4月29日ヘレン・ケラー来日の機会に講演会を開き、その講演の結びの言葉に深く感銘し、「それまでの利己主義を恥じるとともに、必ず生涯弱いものの味方になろうと誓った」と、後年まで屢々述懐している。
「このなかに、目のみえる方がいらっしゃいましたら、どうか目の見えない人のお友達になってください。このなかに、耳の聞こえる方がいらっしゃいましたら、どうぞ耳のきこえない方のお友達になってください……。これまでの人類の文明は、強い者が弱い者を踏みこえて進むことによって築かれてきました。けれども、それは前進のようで前進ではありませんでした。やがて、その強いものも弱くなり、次の強いものを踏みこえられたからです。これからの文明は、強い者が弱い者の手をとって、二歩ゆくところを一歩進んでも、それは後もどりのない前進になるでしょう。」 —へレン・ケラー—
「既成教会に入ったらイエスに従うことはできない」と牧師になることを拒み続け、しかし、神の摂理と受け止めて、上富坂で18年牧会。そして、やがて、そこから「いと小さく貧しき者」に仕える道——コロニーへの道——が展開した。
ここまで辿って来て深く深く思うことは、「神は一人の人を用いて、み心を成された」ということであり、まさに、この世に生を享けられたときから始まった道は、コロニーへの道であり、その備えの道だったと思えてなりません。(先生は2000年8月17日、90年9ヶ月の生涯を閉じて、帰天されました)
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Ⅱ.かにた婦人の村創設前史
(1)ベテスダ奉仕女母の家の誕生
1954年5月23日、奉仕女志願者4名の着衣式が行われて、ベテスダ奉仕女母の家が発足した。埼玉県加須市にある日本基督教団愛泉協会において、館長深津文雄、指導姉妹として、ドイツのウッパータールにあるディアコニッセン・ムッターハウス・ベテスダから愛の泉の働きに派遣されていたSrハンナ・レーヘフェルトと、Srエリサベット・フョーリンガー。上富坂から始まった奉仕女運動ではあったが、無からの出発で母体となる母の家(建物)もなく、愛の泉のドイツ宣教師であり、東洋英和で保育を教えておられたゲルトルート・キュリックリヒ先生のご好意で、施設内に新築された診療所を拝借しての出発であり、ここに3年お世話になった。
奉仕女とは、ドイツ語ではディアコニッセ。1836年ドイツでフリートナー牧師によって再興されたプロテスタントの社会救済に奉仕する女性である。その起こりは、イエスが、神の福音を説くと共に、苦しんでいる人々を助けるために弟子たちを使わされていたことに端を発し、原始教会で7人の奉仕者が選ばれた意義もそこにあるが、フリートナー牧師の再興により、今日ドイツをはじめ世界中に国によって形態の違いはあるが、数万人の奉仕女の働きについている。
2年後1956年10月、深津館長から茂呂塾が寄付されてベテスダは社会福祉法人となる。
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(2)婦人保護施設いずみ寮創設
1956年5月21日、第24国会で売春防止法が成立。24日に公布され、2年後に全面施行。
この法の成立については、明治時代に既に始められていた廃娼運動に、キリスト教婦人矯風会と救世軍が深く関わり、血を流すほどの闘いのあったことは銘記されなければならない。このキリスト者の闘いの後を受け継ぐことこそ、奉仕女の取り組むべきことではないか——「日本に生まれた奉仕女」——ということは、日本独自の問題を奉仕女独自の方法が解決するということでなければならない。日本独自の問題といえば、売春ほど大きなものはない。しかも、日本人みずから、それに気づかない、それほど大きいものである。気づいたところでどうすることもできない。それを比例する倫理が、日本にはないのである。——「教会こそ、これを否定すべきである。しかし、教会は、おのが清さにほこり、この大いなる汚れに目もくれようとしない。」と館長深津は述べ、全面施行に際しては、東京都の委託による婦人保護施設いずみ寮を練馬区大泉学園前に開所した。
「どんなに肉体的に破れはてた人でも、親切にお友達になってあげその人の中に残されている才能をひきだしてあげ、たとえ能力がなく、社会に戻ってゆくことの困難な人でも、末永く世話してあげることの出来るような愛に満ちた暖かい施設が必要である。」
この思いの中に始められたいずみ寮であったが、まず、直ちに発見したことは、彼女たちは落ち(転落)て重くなったというより、むしろ重いから落ちたのだということ。それならば、なにも急いで短期間に社会復帰を強行しないで、どこか広いところで、長期にわたり、じっくりと人間改造のやれる所が必要なのではないか。それを仮に「コロニー」と呼び、実現を目指した運動が始められた。
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(3)久布白落実先生とコロニー後援会
いずみ寮開設にあたっての恩人久布白落実先生が開所式にはでられなかったからと2ヵ月後の6月6日、他3人の方々と来訪。寮生たちとの懇談の席で、「わたしたちは、身も心も弱いから、助け合って、一生きれいにくらせる村をつくりたい。先生はお顔がひろいから、ぜひ国会の方にも働きかけて、私たちのコロニーを実現するようお助けください」とのMYの訴えに感動し、「なにごとも、人だのみで出来るものではない。そう思ったら、今日、自分で始めなさい。足もとの第一歩から。わたしが、きょう種をまくから、これを育てなさい」と、テーブルの上で財布を逆さまにして出された52円が献げられて、コロニー後援会が発足し、その日から小コロニーと称し、敷地内で次々と農耕、土木、養鶏、養豚、洗濯、製パン、印刷などの作業が展開した。そして7年後コロニーが実現した。
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Ⅲ. かにた婦人の村の誕生
「コロニーというのは、むかしからぼくの理想なのである。上富坂で、茂呂で、いや、もっと以前から、いろいろな人の世話をした。けれどもそれはうまくいかなかった。要はコロニーがないからである。ひとり社会に生きるには弱すぎる人を、清く、たくましく、生き生きさせる場所がなくてはならない。それは、せまい、しばらくの施設ではなく、広い働きのある永住の地でなくてはならぬ。それを上富坂に求め、大泉に見出そうとしたが、ここ大泉でもダメだ。もっと広い、汚染されていない土地へ行こう。そこを乳と蜜のしたたるところにして、生まれたばかりの嬰児のように洗いなおそう。長い時間かければ、きっとできる。生まれながらの売春婦ってありえないのだから」。
1959年8月、10万坪のコロニー試案を東京都に提出。61年10月全国社会福祉大会でコロニー決議がなされ、12月予算獲得のため街頭行進をし国会に陳情、63年11月館山の地、戦時中旧海軍が使用していた双子山砲台跡の国有地9,003坪の払い下げを受け、64年1月に工事契約。
この年7月から11月にかけて6組のワークキャンプが組まれた。9カ国の青年34名によるエキュメニカルWC25日間をはじめ、その労働奉仕の遺産は今に残り、またそのメンバーの来援は今も続けられている。
静かなうち海を見下ろす、広い岡の上にぱらぱらと先ず6棟の居住棟——家庭的な生活を望んで、1棟17名の準小舎制がとたれ、今日のグループホームの先がけとも思われるが、この6棟については9年目から自治の生活が営まれている。そして大食堂、浴場、小作業棟、事務棟の10棟が立てられて1965年4月1日の開所を迎えた。
「人間、地上に生を享けている限り、無用なものは存在しない」との信念をもって始められた村には、門もなく、塀もなく、テレビもなく、また禁酒禁煙。しかし、集団生活に必要な日課と、最小限の約束以外に規則はなく、できる限り一人ひとりの主体性を生かすことを目指した。
なぜ門も塀もないのか、なぜテレビもないのか(週1回のビデオ教室はあるが)、なぜ禁酒禁煙なのか、なぜ規則は少ない方がよいのか。一人ひとりがそれまで悪習を断ち切って新しくなるため、生まれたときの清純さを取り戻すためである。信じ得ぬときにも、なお信じ、その信頼関係を築くためにも。
恵まれた自然環境の中で、おいしい食事、美しい歌・音楽・絵画・作業・共同作業・行事など、それにゆったりしたリズムの中で一人ひとりが、確かに生き生きと、しかも誇りをもって生きている。
「コロニーをコロニーたらしめるのは死ではない。コロニーをコロニーたらしめるものは生である。それも生きれいればよいのではなく、生き生きとしていなければならない」。
こうして始められた独自性の強い村は、施設というより、強い絆で結ばれた共同体の意識が強い。全員が「村づくり」の参加者なのである。
39年を経た今日、先ず建物が書記の10棟から25棟に増えた。1つの作業が誕生することで次々と作業棟が増え、22年前には念願の納骨堂づき教会堂が建った。1年4ヶ月かけた村人全員の手作りで。作業棟の殆どもワークキャンプや村人たちの労働によるもの。お金が乏しいことにもよるが、かえって、そのことによって得るものも大きい。成し遂げた喜びや感動。そして生まれた絆。
現在作業は8班——衣類Ⅰ、Ⅱ(不用品のリサイクル)・農耕・家事・陶芸・製パン・選択・家事(調理・掃除・高齢者棟家事)——これらの作業は自分たちの生活を分担してつくりだすものとなっている。どの作業班に属するかは、先ず各人が選択することになっている。
39年の変化の2つ目は、長期施設として当然のことながら、高齢化していること。20代から80代にかけた平均年齢も63歳を超えた。初年度に入所して39目年経った人が3分の1を占め、また年齢的にも、入所期間からも現状は長期から終生施設へ移行している。実際26年前に看護棟が一棟増えて、当かにた婦人の村としては内外に向かって、既に長期から終生へ——「終の住処」であることを表明してきた。殊に村人たち(利用者)にとっては、安心していられる「一生の家」となっているのである。
ただ、今日、婦人保護事業の中で、「終生施設」が認められるのかどうか、行政との間に厳しい問題に直面していることを付け加えておきたい。
いずれにせよ、この業を引き継ぐ者たちが、創設の原点に立って、その精神が生き生きと継承されていくこそ、最も大きな課題と言える。