戦国期のはじまり(享徳の乱)と房総里見氏の活躍
●戦国期のはじまり(享徳の乱)と里見氏●
享徳の乱や応仁の乱にはじまる戦国の争乱のなかから、それぞれの地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。16世紀前半、近畿地方ではなお、室町幕府における主導権をめぐって、細川氏を中心とする内部の権力争いが続いていた。一方、地方では自らの力で領国をつくりあげ、独自の支配をおこなう地方権力が誕生していたが、これが戦国大名であった。
文安4年(1447)、8年の時を経て鎌倉公方が復活し、信濃の大井氏のもとにいた足利成氏が、幕府の許可を得て鎌倉に戻ってきた。しかし、関東管領であったのは、父持氏を殺した上杉憲実の子憲忠であった。
新公方の近臣には、安房の里見左馬助義実がいた。左馬助としての義実と、左馬頭であった足利成氏との官途からみて義実は側近であったと思われ、成氏が鎌倉に復帰した頃には、安房に拠点をもって、上総方面の上杉方への牽制する役割を担っていたと推察される。『鎌倉大草紙』のなかで里見義実は「持氏の御供に討死しける里見刑部少輔家基が子左馬助義実は房州より打て出、上総半国を押領し鎌倉へ参」ると紹介されている。
永享の乱や結城合戦で敗北した鎌倉公方足利派は、安房でも上杉方に所領を奪われたので、実力で回復しようとする動きが頻発してきた。そして、宝徳2年(1450)には両派の対立が鎌倉での武力衝突となり、関東管領上杉憲忠の重臣長尾景仲と上杉顕房の重臣太田資清とが、鎌倉公方成氏の館を襲撃したのであった。成氏は江の島へ逃れ、対立はますます激しくなっていった。
享徳3年(1454)年に、足利成氏は里見義実をはじめ武田信長や結城成朝などの側近を率いて、鎌倉にいた関東管領上杉憲忠を襲撃して殺害した。年が明けて康正元年(1455)になると、上杉氏との本格的な合戦がはじまり、鎌倉公方足利派と関東管領上杉派とが、関東を二分した東西対決という享徳の乱と呼ばれる大争乱の時代へと突入していった。
●里見義実の登場と稲村城●
足利成氏は逃げる上杉勢を追って下総国古河に入り、この地を上杉派との対決の拠点にしたので鎌倉公方足利成氏は、古河公方と呼ばれることとなった。その頃、越後・上野・武蔵・相模・伊豆など関東の西半分は、上杉氏の勢力圏であり、上野東部・下野・常陸・下総などの関東の東半分は、反上杉勢力圏として分立していた。上総や安房両国とも上杉氏が守護となり、もともと足利氏の所領が多く、管理のために数多くの家臣が入り込んでいた。足利派は房総が上杉派の勢力圏に組み込まれると、東京湾の海上交通路が封鎖されるに等しかった。足利氏の勢力圏として確保するためには、房総の足利派を結集して上杉派に対抗する必要があった。成氏の側近であり、足利氏と同族である里見民部少輔義実に、安房での勢力取りまとめの役割を与えて、同じ側近の武田信長には上総で、その役割を与えたのであった。
関東全体が足利公方派と上杉派に分かれて対立するなか、もともと公方の側近で足利氏と同族という家柄だった里見義実は、安房国の上杉派を排除するため成氏の指示によって送り込まれたと考えられる。足利氏の所領が多い安房国には、上杉氏の勢力がどのくらい存在したかは不明であるが、朝夷郡には上杉氏の勢力がおり、その拠点は白浜であった可能性は高く、海上交通の要衝として東京湾への航行路と太平洋沿岸航路の分岐点となった湊が、白浜と想定されるのである。
この海域から上杉勢力を追い払うことが義実の役割であった。里見氏の安房入部の伝承が白浜にあるのは、白浜にいた上杉派を駆逐したことがベースになったと推察される。もともと白浜近くの神余郷を本拠にする神余氏や、後に里見氏初期の重臣になる木曽氏は、上杉氏の家臣であった。里見氏支配が、鎌倉公方の権威と家柄だけで、安房の足利派をまとめることが可能であったかどうかはわからない。しかし、安房入部後の戦いのなかで、上杉派から里見氏側についた勢力があって、義実は短期間の戦いで、安房国の実効支配が可能になったと思われるのである。
稲村城は安房の国府に近く、安房国の足利派勢力を結集するには好都合な場所であった。里見義実は、足利成氏が下総古河へ移り、上総に武田信長が入ってきた康正2年(1456)には、稲村城を拠点にしていたと考えられる。里見義実が安房を取りまとめるにあたり、安房の役所機能をもつ国衙を動かす人材として、南北朝期には、鎌倉府の指示を現地執行する役割を果たした丸氏や、平安期からの役人で国府周辺に勢力をもっていた安西氏などが、前期の里見氏の重臣であったかもしれない。
義実が拠点にした稲村城は、館山平野や館山湾を一望できる位置にあった。主郭部からは、はっきりと那古の地や那古寺を眺めることができる。安房国の国府である府中や平久里川河口の湊に近く、平久里から府中、そして白浜までの南北に縦断する通じる道と、内房と外房を横断している東西の道との交差点のところに稲村城は築城された。当時、入江のようになっていた平久里川河口から、稲村城の麓を流れる滝川には舟で入り込むことができ、農業生産力を維持する水利にとっても滝川が重要であり、用水の管理をする最も都合の良い場所に稲村城はあった。また、国衙に関わる安西氏などの支持をえて、安房国主にふさわしい本城を義実はもったのであった。
前期里見氏の本城であったので戦国前期の遺構をもった城郭と評価され、中心部には土塁・堀切り・土橋・垂直切岸・尾根先端の切断(切岸)・階段状の小さな平坦地(腰曲輪)などが残っている。頂上の主郭部の平坦地は、山を削って平らにしただけでなく、当時としては珍しい版築技法という高度な土木技術によって土盛りがされ、義実がこの地を安房国統治の所堅固な城にしていくという強い意志が感じられるのである。