鎌倉期の安房〜鎌倉幕府の誕生と安房の動き
●鎌倉幕府の誕生と安房の動き●
【治承三年(1179)】
11月 平清盛、院政を停止し後白河法皇を幽閉
【治承四年(1180)】
2月 安徳天皇即位
5月 以仁王、源頼政ら挙兵
6月 福原遷都
★8月 源頼朝の挙兵。≪石橋山の戦い≫
9月 源義仲の挙兵
10月 頼朝、鎌倉入り。富士川の戦い
11月 頼朝、侍所を設置
12月 平重衡、南都焼き打ち
【治承五年(1181)】
1月 平氏、畿内の軍事体制を強化
2月 平清盛死去
【寿永元年(1182)】
2月 平教盛、義仲と北陸で合戦
【寿永二年(1183)】
5月 倶利伽羅峠の戦い
7月 平氏、都落ち。義仲の入京
10月 後白河法皇、頼朝の東国支配権を認める
11月 義仲、後白河法皇を幽閉。源義経ら上京
【寿永三年(1184)】
1月 義仲、粟津に敗死
2月 一の谷の合戦
10月 頼朝、公文所・問注所を設置
【文治元年(1185)】
2月 屋島の合戦
★3月 平氏、壇の浦の戦いにやぶれ、滅亡
10月 義経、頼朝追討の院宣をえる
11月 頼朝、義経追討の院宣をえる。頼朝、国地頭・荘郷地頭を設置
【文治二年(1186) 】
6月 頼朝、没官領をのぞき国地頭を廃止
【文治五年(1189)】
9月 頼朝、奥州平定
鎌倉幕府の成立において、安房の武士たちはどのように関わっているのか。当時安房国の豪族には、平群郡の安西氏や安房郡の神余氏、あるいは朝夷郡の丸氏、さらには長狭郡に長狭氏や東条氏がいたとされている。平群郡という地域は、かつて平安末期に平北郡と呼ばれたり、鎌倉期から戦国期にかかけては北郡、江戸期には平郡といわれていた。とくにこの地域は、鎌倉期から室町期にかけて安西氏の勢力圏とされ、なかでも平松城をもつ三芳・池之内を拠点にしていた安西景益は、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房へ逃れてきたとき、安房国衙の在庁官人であったとされている。そのことは『吾妻鑑』のなかでも、頼朝とは「幼少より昵懇の安房国住人安西景益」と記載されるなど、保元・平治の乱以前から源氏の家人であったと推察される。「安西」という苗字から示唆されることは、安房国府周辺の群房庄を含んだ安房郡の西部地域にいた豪族として、安房国衙の有力な在庁官人の立場から安房国支配に関わる武士ではなかったと考えられる。
頼朝が石橋山の戦いで敗北し、伊豆から安房に逃れきた際には、平北郡の猟島に上陸したといわれている。その地域は三浦氏が安定した支配をし、再起を図る頼朝にとっては軍事的に好都合な場所であった。また、幼少の頃より親しかった安西景益には、安房国衙の在庁官人を引き連れて来るように命じ、丸信俊には源氏ゆかりの地である丸御廚を巡視するために案内させている。なお、平氏の家人であった長狭常伴が頼朝を襲ってきたときは、三浦義澄が撃退して逆に長狭氏を滅ぼしている。この三浦氏一族は平安期末から平北郡に勢力をもち、とくに内房の海岸線を支配下においていたので、長狭郡の長狭氏とは所領をめぐって対立してきた経緯があった。
頼朝は、長狭常伴所領の長狭郡のうち東条を伊勢神宮に寄進し平氏討伐の祈願をしている。その際に討伐したあかつきには、安房国中で新御廚を建立して伊勢神宮へ寄進するとの願文を頼朝自らが書いたといわれる。
ところで丸氏に関わって成立したと思われる丸御廚は、平忠常の乱を平定した源頼義が東夷平定の功績により朝廷より得たものである。その後、源為義から義朝へと伝えられ、そして平治元年(1159)には、義朝が子頼朝の昇進を祈願して伊勢神宮に寄進していた荘園であった。
那古寺の由緒書である『補陀洛山那古寺縁起』(文化二年写)には、「治承四年(118)に伊豆で敗れた源頼朝が安房へ逃れたときには那含の観音と鶴谷の八幡神が現れて頼朝に加勢のあることを告げた。加護を得た頼朝は鎌倉に入って武家の棟梁になることができた。そこで衰えていた那古寺を氏寺にして七堂を建立」したと記載されている。鎌倉期に頼朝の篤い観音信仰や東国武士への観音信仰の浸透を背景に板東三十三所観音巡礼がはじまったといわれるが、そのなかで三十三番の結願寺が那古寺にされたことを見ても、頼朝の戦勝祈願を成就した寺院として特別な存在であったと推察されるのである。
石橋山の戦い後の治承四年(1180)8月から9月にかけて、安房国において頼朝はどのような動きをしていたかを『吾妻鑑』の安房の武士たちを中心に概観してみる。
●治承四年(1180)●
【八月二七日】
源頼朝等、二四日に相模国石橋山の戦いに敗れ、この日風雨のなか三浦義澄、三浦より安房国へ赴く。また、北条時政・義時、岡崎義実、近藤国平等も相模国土肥郷岩浦より安房国へ向う。
【八月二八日】
頼朝、土肥真鶴崎より安房国へ渡海する。土肥実平舟を用意する。
【八月二九日】
頼朝、実平とともに安房国平北郡猟島へ着船。北条時政ら迎える。
【九月 一日】
頼朝、幼少より昵懇の安房国住人安西景益に書を送り、在庁を連れて参上するとともに、安房国中の京下の者どもを搦めとるように命じる。
【九月 三日】
頼朝、平北郡より上総の広常のもとへ赴く途中、民家において安房国住人で平家方の長狭六郎常伴に襲われる。国郡の案内者である三浦義澄が事前にこれを察知し、迎え打って常伴を敗る。
【九月 四日】
安西景益、頼朝の御書を受けて一族と在庁両三輩を引きつれ、頼朝の旅亭へ参上する。また景益が直接広常のもとへ行く危険を説くため、頼朝は路次より駕脇廻して景益の館に入る。頼朝、和田義盛を上総権介広常のもとへ遣わし、安達盛長を千葉介常胤のもとへ遣わして迎えを依頼する。
【 九月 五日】
頼朝、洲崎明神へ参り、諸将の参陣がなったときに神田を寄進する旨の願書を奉る。
【九月 六日】
和田義盛、上総より帰参。
【九月 九日】
安達盛長、千葉より帰参。
【九月一一日】
頼朝、丸五郎信俊を案内者に安房国丸御厨を巡見する。当所は、「始祖源頼義が東夷を平らげたむかしの、最初の朝恩である。義朝が為義に講うて譲与をうけた最初の土地でもある。頼朝が昇進を祈願して、平治元年六月一日にこの土地を伊勢大神宮に寄進した結果、二八日に蔵人になった。」という由緒がある。頼朝、宿望を達したあかつきに、安房国で伊勢大神宮に新御厨を寄進する旨の願書をしたためる。
【九月一二日】
頼朝、洲崎宮へ神田の寄進状を送る。
【 九月一三日】
頼朝、安房国を出立し、三〇〇余騎で上総国へ向う。
【 九月二〇日】
安房・上総・下総をはじめ上野・下野・武蔵の兵が参向したことから、平氏を迎え討つため黄瀬川へ発向するよう、甲斐の武田信義に命じる。
●安房の武士たち●
鎌倉政権誕生やその後の東国武士団との関わりのなかで、安房地域の武士たちが果たした役割は極めて重要であった。一貫して頼朝を支援した在地の豪族であった安西氏をはじめ、丸氏や神余氏、東条氏の所領は安堵されて、鎌倉期では代々地頭職に命じられていったと想定されるのである。
前述のように安西氏は、安房郡の西部という意味から「安西」との苗字になったとされ、館山湾に面する鶴谷八幡宮は、安西八幡と呼ばれていたことや、北条城や船形城にも安西氏の伝承があり、安房周辺の海域を支配していることから、平北郡=北郡南部から安房郡北部にかけての安房海域の海上交通路は、安西氏が押さえていたと推察される。なかでも拠点であった平松城は安房郡にあり、平安期から南北朝期にかけての荘園群房庄は安西氏支配に関わっており、安西氏は平北郡よりは安房郡を代表する武士であったろう。
なお「群房庄」と呼ばれていた荘園の名称は、平群という地名と安房郡の名称に由来するとされ、両郡の境界付近にあった荘園ではないかと推定されている。南房総市の三芳地区には「御庄」という地名があり、群房庄との関係を示唆する地名ではないかと思われる。この「群房庄」は、養和元年(1181)の文書に初見され、後白河院から京都東山の新熊野神社へ寄進された荘園という。正治二年(1200)の文書にも、「群房庄内広瀬郷」として広瀬の地名があり、この地の所有者は新熊野神社ではなく京都の公家吉田経房とされ、この年には京都上鴨神社に寄進されている。その後、広瀬郷は南北に分割され、南北朝期には広瀬郷北方が鎌倉の鶴岡八幡宮領から安房国安西八幡宮領となって、現在の鶴谷八幡宮につながっている。この広瀬郷北方は、三芳地区の府中周辺と想定されており、広瀬郷も現在の広瀬や府中を含む周辺の広い範囲の呼称と推定されている。
安房地域において鎌倉幕府の支配を示す史料は多くないが、鎌倉地域に限定されいた「やぐら」などが数多く報告されるようになり、安房が鎌倉文化圏として、さまざまな文化交流があった痕跡を見いだせるようになった。「やぐら」は、岩窟や谷倉とも書き、鎌倉・室町期に三浦半島の武家の墓として、山の斜面に横穴を掘り壁に壇を設けて火葬骨を納めたり、五輪塔や宝篋印塔などの石塔を建立していた。「やぐら」は館山市の水岡や九重、豊房だけではなく、各地に存在していることから安房地域は色濃く鎌倉文化圏を示している。
当時の安房国の動きを中心に『吾妻鑑』からを見ると
【養和元年(1181)五月二三日】
鎌倉において姫君の館と御厩の建設のため、今日明日のうちに庄公の別なく工匠を遣わすよう、安房国の在庁等に命じる。
【同年五月二七日】
安房国の大工等鎌倉へ参上し、翌日立柱棟上をおこなう
【同年七月二〇日】
長狭六郎常伴の郎等左中太常澄、宿意を果たすため鶴岡での行列に紛れ込み、下河辺行平に摘えられる。
【寿永元年(1182)八月一一日】
北条政子が産気付き、頼朝祈祷のために、伊豆箱根両所権現と近国の神社八社に奉幣使を立てる。安房国には、洲崎社へ安西三郎、東条痔宮へ三浦平六義村が遣わされる。
【寿永二年(1183)七月一七日】
後白河上皇、養和元年冬に藤原定経に給した新熊野領群房庄を、再び斎院へ返すことを認め、高階伊予守泰経をして前右少弁平基親に命じる。(多聞院文書)
【元暦元年(1184)五月 一日】
故志水義高一類征伐のため、甲斐信濃へ軍兵が遣わされる。頼朝、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人も一〇日に進発するよう和田義盛・比企能員等に命じる。
【同年五月 三日】
頼朝、朝家安穏と私願成就のため、東条御厨を伊勢大神宮の外宮に寄進し、伊勢の会賀次郎大夫生倫を神主としてつけ置く。同時に内宮に武蔵国飯倉御厨を寄進する。
【同年八月 八日】
安西三郎景益・同太郎明景らは源範頼に従い、平家追討のため西海に。
【同年 一一月一四日】
平家追討軍、舟・兵糧が尽き、東国へ飛脚を遣わす。
【 文治元年(1185)一月二六日】
安西景益・同明景等、源範頼に従い周防国より豊後国へ渡る。
【同年 一〇月二四日】
鎌倉長勝寿院で供養が行なわれ、丸太郎、門外西方を警護する。安西景益、行列に加わり、曽我太郎祐信とともに八の御馬を引く。
【同年 一二月 四日】
会賀生倫、かの願書を捧げて東条御厨の痔宮に参脇して祈祷し、霊夢をうける。頼朝、霊夢の報告を受け、御厩の飛龍という馬を痔宮に奉納する。
【 文治二年(1186)一月 七日】
前年一二月二七日に解官配流の宣下があり、親義経派の前刑部卿藤原頼経が安房へ配流となることが、北条時政より鎌倉へ伝えられる。
【 文治四年(1188)三月一五日】
鶴岡八幡宮道場で大法会が行なわれ、行列の路次随兵三〇人のひとりとして安房平太が郎等三人をともない従う。
【 文治五年(1189)二月三〇日】
頼朝、安房・上総・下総等の荒野を浪人を呼び寄せて開発させるよう、その地の地頭等に命じる。