江戸期の安房の海防
●安房の沿岸防備●
17世紀中ごろにイギリスなどで市民革命が、18世紀末にはアメリカの独立戦争、つづいてフランス革命がおこった。またロシアはシべリア開発に意欲を持ちはじめ、19世紀になるとアメリカも西部開拓を進めて太平洋に進出するなど、世界情勢は大きく変動していた。このなかでロシア船やイギリス船、アメリカ船が日本近海にあらわれ、幕府は列強より外交政策の変更を迫られていく激動の時期を迎えることとなる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、アリューシャン列島に漂着した伊勢の船頭であった大黒屋光太夫を届けたときに通商を求めてきた。その際に江戸湾の入航を要求されたことで、幕府は急遽、江戸湾や蝦夷地の海防強化を諸藩に命じることになる。1798(寛政10)年に近藤重蔵や最上徳内らに択捉島を探査させ、翌年には東蝦夷地を幕府直轄地にしている。
1804(文化元)年、ロシア使節レザノフがラクスマンの持ち帰った入港許可証を持って長崎に来航したが、幕府はこの正式使節を追い返したので、ロシア船は樺太や択捉島を攻撃している。この間、幕府は対外防備を増強し、1807(文化4)年、松前藩と蝦夷地をすべて直轄にして、松前奉行の支配のもとにおいた。翌年には間宮林蔵に樺太とその対岸を探査させ、全蝦夷地を松前藩の支配に置いたのであった。
一方、北方での対外的な緊張に加えておこったのが、1808(文化5)年のフェートン号事件であった。イギリス軍艦フェートン号は、当時敵国となっていたオランダ船を追って長崎に侵入し、オランダ商館員を捕えて人質にするとともに、薪水や食糧を強要して退去していった。この出来事に衝撃を受けた幕府は、1810(文化7)年、白河藩と会津藩を指名し、江戸湾の沿岸防備を固めるように命じたのであった。
その後もイギリス船やアメリカ船が日本近海に出没し、薪水・食糧などを強要することが多くなったので、幕府は薪水・食糧を供給して帰国させる方針をとっていたものの、外国船員と住民との衝突などを回避するため、1825(文政8)年には異国船打払令(無二念打払令)を出して、外国船は撃退するよう命じている。
1837(天保8)年にアメリカ商船モリソン号は、日本人の漂流民7名を送還するために、また日本との貿易開始を交渉するため、あらかじめ武装を解除して浦賀沖に来航してきたものの、幕府はこれを異国船打払令にもとづいて砲撃したのである。モリソン号は反撃することもなく退去させるという事件がおこった。
実はこの時に安房の天津村の船が偶然にも、モリソン号と出会ったという記録が残されている。押送船の船頭忠七は、操業している漁船から魚を買い取って各地で売りさばいていたが、ある闇夜の日に海上の大きな船から投げ込まれた書付のようなものを下船後に、異国船からではないかということで下田の役所に届け、浦賀奉行に届けられた。忠七以外の船にも、三浦半島沿岸の数艘の漁船がモリソン号から銀銭や巻煙草、木の実などの品物が投げ込まれたと届けている。また、モリソン号の乗員が帰国後に書いたものに、当時沿岸に住む日本人たちは危害を加えられとみると友好な態度で200名も乗船し、モリソン号の乗員たちも思わぬ来訪に気をよくしたという。来訪の答礼のために翌朝に上陸することにしたが、その夜のうちに浦賀奉行らは海岸と番船に大筒を運び込み翌朝に砲撃をしたのであった。このとき三浦半島沿岸では1,300人の水主と漁船など200艘近くとともに、1,000人を超える人足が動員されたといわれ、那古を含む房総半島の対岸地域においても他人事ではなく、江戸湾防備の見直しがせまられたのであった。
翌年、漂流民送還の異国船を砲撃したことを知った渡辺崋山や高野長英が、幕府の強硬的な外交政策を批判したところ、これに対して幕府は厳しい処罰を科してきた。江戸時代後期の異国船出現による沿岸防備の強化のなかでは、とくに江戸湾の入口にあたる安房の地に、警備する武士や砲台などの軍事施設が多数置かれ、江戸湾を防備する重要な役割を担うことになった。砲台などをもつ周辺では地域からの漁船や人足としての動員もあり、那古の人びとも異国船への対応では重い負担か課せられる可能性があったので、緊迫した情勢を感じ取っていたのであった。
●幕末の海防と安房●
海岸防備は、鎌倉時代の異国警固番役に始まり、幕末になると世界情勢の変化に伴って、再び慌ただしくなり、江戸湾の入り口にある安房は、海防の最重要拠点になっていった。1792(寛政4)年、漂流船員送還の名目で、帝政ロシアからの使節が来航し、通商を求めてきた頃より外国船が出没するようになり、時の老中松平定信は海防の強化のために沿岸諸藩に海岸防備を命じ、自らも房総の海岸を巡視している。
8代将軍吉宗の孫であった松平定信は、徳川田安家から白河藩松平家の養子となり藩主となると、質素倹約を理念として藩政に努め成果をあげたことが評価され、後にいわゆる寛政の改革を断行している。しかし、厳しい統制や倹約令はかえって庶民の反発を招き改革は頓挫した。ただ、海防の強化は緊急の課題であったので、1810(文化7)年に老中職を辞しても、定信には安房・上総の沿岸防備が命じられ、翌年に白河藩は安房に約3万2千石の領地、つまり平郡では9ヵ村、安房郡42ヵ村、朝夷郡21ヵ村などが与えられ、具体的な海防を担っている。その一つが洲崎に台場を構築することであり、波左間には陣屋が置かれた。この洲崎台場と松ヶ岡陣屋には、白河藩から500人が送り込まれ、江戸湾へ侵入する異国船を見つけた場合、ただちに舟を漕ぎ出して船を止め追い払う任務が課せられたのであった。なお、相模側では同じ年に会津藩が沿岸防備を命ぜられているが、1820(文政3)年に解任されている。
白河藩も1823(文政6)年に松平定信がに伊勢桑名へ転封となり、安房・上総の沿岸防備の任が解かれた。波左間の松ヶ岡陣屋はこの14年間、江戸湾の入り口にあって異国船に対峙する最前線となっていた。この陣屋は並木に囲まれた5,300坪のなかに、御殿1棟をはじめ長屋9棟、土蔵4ヵ所、馬屋1棟などがあった。白河から来た武士たちの多くは、駐屯が長期になるため、故郷から父母や妻子、下人などをともなって赴任し、館山の地で亡くなったものも多いといわれている。定信は「狗日記」に「洲崎の台に行きしが思ひよりもよく造りなせり」と記載しているが、洲崎神社の篇額は定信の筆であると伝えられている。
その後、幕府は異国船打払令を出したり取り消したりの混乱の中で、1842(天保13)年には、武蔵忍藩主松平忠國が房総の沿岸防備を命ぜられ、平郡には9ヵ村、安房郡に61ヵ村、朝夷郡に32ヵ村など領地約2万7千石が与えられている。なお、相模側は川越藩に防備が命ぜられた。江戸湾の入り口にある海防の拠点の洲崎と大房岬を警備するため、1847(弘化4)年に松平忠國は、北条の鶴ヶ谷に陣屋を築き、北条海岸にも砲台を設置している。当時の洲崎台場の様子は、1850(嘉永3)年の巡検報告書のなかに、土塁を巡らして大筒5門を配備した「洲之崎砲台試大熕図」の絵図が描かれ、今に残っている。
ペリーの来航に先立つこと8年前、1845(弘化2)年の2月にアメリカの捕鯨船マンハタン号が、日本人の漂流民や難破船乗組員の計22名を送還するために房総沖に接近してきた。朝夷郡白子村沖合に異国船を発見した報告は、すぐに浦賀奉行所に届けられ、竹ヶ岡陣屋の武蔵忍藩と勝山陣屋の勝山藩が対応した。沿岸警備の人足の動員などで房総沿岸は大騒ぎとなった。マンハタン号船長クーパーは来航の目的を幕府に伝えるために、2名の漂流民を使者として先に上陸させ、浦賀奉行所に出頭させた。幕府は来航の意図が危険でないと理解したものの、その後も船側は漂流民たちを送還できずで沖合でさまよっていたが、洲崎の沖合に現れたマンハタン号は結局、170艘ほどの漁船で館山湾へ曳航された。翌日には浦賀湊での4日間の停泊を認められ、日本人の漂流民ら全員を送還しマンハタン号の目的は達せられた。日本側からは食糧や薪、水などが支給されて、友好的に出航していったといわれる。
クーパー船長は帰国後、「日本の気候と風景が非常に快適で美しいと語った。彼が沿岸を調査したところは、どこも大地は非常に豊かな緑が溢れんばかりだった。丘陵や谷あいの平地はくまなく耕しつくされているように見えた。耕作するには傾斜が急すぎるところでは、住民の天才的農業技術により土地は段丘状に形成されていた。それが何マイルも続いていて、まるで空中庭園のように見えた」という房総の様子を語ったことで、日本は豊かで魅力的な世界であるイメージをアメリカ社会に与えたかもしれない。
そして、オランダ商館長は、1852(嘉永5)年6月になって、幕府に明年にはアメリカ使節が来航し開国を要求することを予告したのであった。幕府は、翌年房総沿岸の防備担当を武蔵忍藩から備前岡山藩と筑後柳川藩に替え、岡山藩には平郡の32ヵ村や安房郡48ヵ村、朝夷郡11ヵ村など約3万石の預地を与えている。そして、この年の6月に予告通り、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは軍艦4隻を率いて浦賀に来航したのであった。