房総里見氏①〜「文化財保存と稲村城跡問題」
館山の「歴史的環境」を見直そう〜文化財保存と稲村城跡問題
愛沢伸雄「房日新聞」掲載 (1996年11月4日付)
【1】 稲村城跡問題が提起するもの
館山市稲には、500年前につくられた里見氏の稲村城跡がある。この貴重な中世城郭が、いま市道建設によって破壊されようとしている。
安房郡市民のみなさんだけではなく、県内外の方々が大変心配し、「里見氏稲村城跡を保存する会」が呼びかけた館山市長あての要望署名には、現在七千名以上の方々の賛同を得ている。また、六月館山市議会に提出した請願書は、現在継続審議となっており、文教民生委員会にて検討されている。
稲村城跡問題は、地域の文化財保存という課題にとどまらず、安房地域の自然的歴史的文化的な環境が活かされた地域振興がどうあるべきか、またそれを踏まえた「街づくり」がどうあればよいかなどの問題を提起している。その意味でも、さまざまな分野で大いに議論がされ、市議会での審議に反映されることを望んでいる。
館山は、南房総の温暖な気候風土のもと、今日まで意識するしないにかかわらず、自然と歴史を一体とする生活環境をつくりあげ、伝統的な生活文化を育んできた。
昔から伝わるマキの樹木の垣根や、松林からみえる富士、そして潮の香り。また町並みに残る昔ながらの景観、さらに農耕地と調和した緑豊かな自然環境などにあふれているといっていい。館山を訪れる人々が町並みのどこを見て声をあげるといえば、ところによっては、みごとな景観をなすマキの垣根であることが意外と知られていない。館山に久しぶりに帰郷した人が、路地裏のなにげないマキの景観に「ふるさと」の姿を感じるという。
ところでいま、「ふるさと」に対する意識を失ないつつあるといわれる。しかし、人はどうも「ふるさと」に様々な想いをもって生きていると思う。
気まま暮らしのフーテンの寅さんに、ぶらりと柴又に向かわせるのは、どんな想いからか。生まれ育った柴又のどこに、寅さんにその想いを抱かせるのか。当然、柴又の歴史的な環境と「ふるさと」意識が、絡んでいるだろうと推察する。では、私たちが住んでいる館山に、歴史的な環境で育まれた「ふるさと」意識が息づいているのであろうか。
【2】「ふるさと」意識の再生を
日本各地では、高度経済成長期以来の急激な産業構造の変化によって、生活環境や生活スタイルが大きく変った。人口の都市集中や核家族の増大により、親から子へ、祖父母から孫への生活文化の継承は弱まり、「ふるさとが見えにくくなった」といわれる。次から次に押し寄せる消費文化の波は、地域に根ざす伝統的な生活文化を呑み込んでいったばかりでなく、豊かさを追い求める地域開発が、伝統的な自然的景観や「ふるさと」を消滅させ、歴史的な環境を破壊していった。
また、生活スタイルはもちろん、地域に受け継がれてきた生活意識までも、先人の生活文化や知恵を学ばない風潮を生み出し、「ふるさと」意識は古くさいものとして脇に押しやられていった。その結果、歴史的環境を無視した観光・リゾート開発や、自然環境を破壊するリゾート・地域開発、そして消費文化に踊らされた行政などがまかり通り、それらのことを憂える建設的な批判も押さえ込まれていった。
そうして、知らず知らずのうちに、地域の人々の心から「ふるさと」意識が薄れてきたといえる。それは安房地域でも、例外ではないことを忘れてはならない。これらの経緯をみるとき、館山において「ふるさと」意識を再生させるためには、どんな手だてが必要なのか。考えられることは、地域にある歴史的な環境をとらえ直し、その環境を活かした地域振興や文化行政ができるかどうかにかかっている。しかも、安易に観光資源としてではなく、「街づくり」に活かされる施策が重要になる。
【3】「ふるさと館山」の文化行政
館山市の文化交流の施策を検証してみよう。
いままでおこなってきた国際的な文化交流や日本各地との文化交流が、この地域の歴史的な環境を活かした交流になっていたか。反論はあろうが、館山の歴史や文化を紹介するパンフレットすらないという現状では、自らの足元がおぼつかない。また、各地の「ふるさと」意識と交流しながら、互いに高めあう文化事業が、地域に根ざす街ぐるみの施策になっていないので、さまざまな分野のボランティアに頼らざるを得ない現状と聞く。さらに、市当局はよく財政的に大変と言うが、どの地域でも当たり前におこなわれる文化財保全が不十分であるために、館山市の文化財が文化交流の場に活かしきれていない。つまり、かけ声だけの「ふるさと館山」の文化交流であることを反省すべきであろう。
館山市は、地域の歴史的な環境を代表する「里見氏」を、文化行政や観光事業のキャッチフレーズにしてきた。しかし、「観光まつりとしての里見氏」には熱心であっても、里見氏に関わる文化財の保全に対して不熱心では、本当の市民のための地域振興や文化行政にならないばかりか、「ふるさと」意識の再生のための「まちづくり」につながらないことを指摘しておきたい。
館山市は、街づくりのテーマに「地域の個性が生きる人間性豊かな文化教育都市をめざして」をおき、「豊かな文化環境を創造する」ことを施策の目標としている。その具体的な計画のひとつに、「伝統文化の継承」を掲げ、文化財の保護と継承・文化財の調査と指定をあげている。今、市当局や市議会にとって、里見氏の「稲村城跡」保存問題は、これまでの文化行政を見直す機会であるとともに、「ふるさと」意識につながる歴史的環境を問いながら、どう「まちづくり」に活かしていくかを検討するチャンスといえる。
【4】 歴史的環境を活かす「まちづくり」
今から20年前、政府は「第三次全国総合開発計画(三全総)」のなかで、歴史的環境の意味を「単に指定文化財に限らず、これらと一体になって形成されてきた周辺の環境、指定文化財ほどの重要性は有していなくても地域の人々の生活や意識の中で祭や年中行事等意味を持っているもの、さらにそれらの舞台となった環境などの地域の文化財並びに遺跡および遺構など、自然の中で残っているものなどを包括して、一体の環境を構成している民族の軌跡の総体である」と定義づけた。
私たちはまわりの環境に働きかけながら、そして環境も私たちを規定するという相互関係のなかで生きてきた。森を切り開いて農耕をおこなうということは、ある意味での「開発」ではあるが、天災などに対応する知恵として、自然環境と調和した開発が前提としてあった。そして、人々の手が加わった山や川などの自然環境のなかで、歴史的な生活環境が育まれながら、地域の歴史的特性がつくられていった。歴史的な環境は、地域の遺跡や景観などの文化財だけでなく、それにかかわる年中行事や祭などの文化財も重要な要素として、地域の個性となった。
ところで、歴史的な環境を活かす文化行政を要求するためにも、市民が自分の住んでいる地域を個性あるものとして認識することが大切である。この認識を高めながら、歴史的な生活文化や景観などを保存するという動きになれば、「ふるさと」意識の再生だけでなく、市民が参加する「街づくり」につながる。とくに、地域の生活文化や文化財、歴史的景観などを生かした「街づくり」こそ、遠いようで近い地域を活性化する道であると再度強調しておきたい。
いま行われている「まちづくり」が、『館山市基本計画』にある「地域特性に応じた景観整備の推進」とどんな関係にあるのか、また地域の人々の生活文化とは、どう関わっているのか、さらに館山の歴史的環境がどのように活かされているのかを大いに議論すべき時といえる。
【5】 安房地域の貴重な文化遺産「里見氏」
10月3日付房日新聞の「展望台」(『地域文化は井戸のようなもの』)では、安房地域における歴史的環境を視野に入れた地域活性化を提起した。その一節に「里見だって、この安房には相当な影響がみえる。でも、なかなか里見の様子がわかってこないんだ」「それが難しいんだ。どうまとめたらいいかな!」「城を基準にして、あとは年号と里見氏から見た位置づけだね」とすすみ、「それなら出来るかもしれないな」と述べた部分がある。
この地域の歴史的環境をあらわす里見氏の歴史を探ることは、不明なことが多い中世安房の歴史を解明するうえで重要である。安房における里見氏のはじまりとその展開については、現在でもほとんど関連史料が見いだせないので、さまざまな分野の研究成果を援用し、調査研究がおこなわれているのが実情である。
しかし、近年の中世考古学の成果は、文献では知り得なかった中世の世界をリアルに再現し、中世史研究を急速に進展させている。したがって、安房にあるさまざまな中世城郭、とくに里見氏関係城郭遺構の本格的調査研究によって、安房地域の中世世界が解きあかされることも可能なのである。とくに強調したいのは、安房に関わる里見氏関係の調査研究が、この地域全体を結びつけ、安房全域の地域振興や文化行政の施策を可能にし得るということである。
そのひとつの例として、安房全域に点在する中世城館跡の総合的調査研究がある。すなわち、館山の稲村城や館山城、三芳の滝田城、富浦の岡本城、白浜の白浜城など、安房各地に現存する城館跡の調査研究センターをつくり、安房の歴史的環境を全体として保全していくことを提案したい。現在おこなわれている市町村レベルでの文化行政を、さらに広域的に連動させることがいま重要と思うのである。
【6】「里見氏稲村城跡」から歴史的環境の見直しを
館山市稲にある稲村城跡は、里見氏が安房一国を平定したころの本拠地(本城)跡といわれている。通説では、初代義実が1486年に築城を始め、その子の成義の代の1491年に完成し、三代義通、四代実堯、五代義豊の40数年間、里見氏の当主の居城であったと伝えられる。この時期、里見氏関係史料がほとんど見いだせないなかで、遺構の保存状態が比較的良い稲村城跡は、歴史的価値が大変高いといわれる。安房の歴史的環境としての里見氏が、館山の地域文化のなかでどう活きているかを館野地区にある稲村城跡から探ってみたい。
1983年、千葉県教育委員会は中世城館跡でも最重要遺跡ということで調査を実施した。その結果、「発掘調査からは高度な城普請がなされていること、また測量調査等からは、これまで知られている以上に大規模な城であることが判明した」と報告している。この報告書によると、稲村城は安房国の中心ともいえる館山平野のほぼ全域を一望できる軍事的経済的要衝の地に築城され、狭義の意味での城跡の規模は城山地区の「主郭部」と、南側の四カ所の小丘陵の「中郭部」との東西500m、南北500mほどの範囲としている。だが、広義の意味では、北側にある滝川を自然の城濠とし、東・南・西方にある丘陵を城の「外郭部」とする、東西約2km、南北約1.5kmにわたる広範囲の城跡と想定されるという。遺構をみると、様々な築城技術によって高度な土木工事を施しており、「主郭部」を中心として、現在でもさまざまな防御施設が残っている。
今日まで比較的良好に城跡遺構が存在するのは、500年間館野地区の人々が、「ふるさと」の歴史的環境を大切に守ってきたからである。その「ふるさと」が、中世考古学によって、いま安房の中世世界の解明に貢献することになる。里見氏の残した文化財の数々は、安房の歴史的環境を形成してきた要素であり、その中世城郭のひとつが、館野地区の歴史的景観をつくってきた稲村城跡といえる。