愛沢伸雄「房総史学」四面石塔ハングルの謎(1995)

『房総史学』第35号(1995)研究協議会の記録④

大巌院「四面石塔」に刻まれたハングルの謎

愛沢伸雄(安房南高校)
<現NPO法人安房文化遺産フォーラム代表>

PDF「房総史学」35号「四面石塔ハングルの謎」

『房総史学』NO.35(1995年) 研究協議会の記録④

大巌院「四面石塔」に刻まれたハングルの謎

愛沢伸雄 (安房南高校)
<現NPO法人安房文化遺産フォーラム代表>

 【1】 はじめに

世界史学習において、千葉県館山市の浄土宗大巌院にある県指定有形文化財「四面石塔」を地域教材として使い、授業実践したことを報告する。この石塔建立をめぐる経緯を地域や日本、あるいは朝鮮、東アジアの歴史から探っていくと、そこには当時の人々の平和創造への願いが浮び上がってくる。

今日、日本と朝鮮をめぐる歴史教材の取り上げ方には、歴史教育の分野でさまざまな検討が加えられてきた。いわゆる「日韓併合」や皇民化政策にともなう強制連行や従軍慰安婦などの問題が、日本の加害教材として地域から掘り起こされてきた。同時に、近年は朝鮮通信使を通じて、江戸期の朝鮮国との善隣友好政策が地域教材として積極的に取りあげられている。その際念頭におかれることは、室町時代の友好的貿易関係から秀吉の「朝鮮侵略」とその敗北。そして江戸期では、朝鮮通信使の交隣関係が長く続いたものの、ふたたび明治期の征韓論と日清・日露戦争から「日韓併合」へと続き、そして侵略戦争とその敗北に至る歴史的事実であろう。1624年建立の梵字・篆字・和風漢字・「初期」ハングル(現在使用されているハングルの原形)の四字体で「南無阿弥陀仏」と刻まれた四面石塔は、史料もなく謎の多い教材であるが、秀吉の「朝鮮侵略」にかかわる善隣友好と平和の石碑ではないかと推定した。

朝鮮・韓国の人々は、多くの日本人がもっている秀吉観とは違い、今日でも侵略者秀吉は許し難い存在とみなしている。それだけでも、日朝の歴史的理解の道に困難さがあるが、やはり現代に生きる生徒たちには、 平和の意義を深く学び、平和な心を育みながら、その困難な道を乗り越えていってほしいと思っている。

この教材研究は、安房の地(から日本の政治外交に関わりながら、とくに朝鮮の人々に対して、善隣友好と平和の理念をもって接していったと思われる一人の僧侶の思想と行動を通して、「初期」ハングルが刻まれている四面石塔建立の意義を探ったものである。

 

【2】 16・17世紀の東アジア世界~安房から朝鮮・日本をみる

(1) 大巌院「四面石塔」とは何か

千葉県指定有形文化財(建造物)「四面石塔 附 石製水向」は「千葉県の文化財」に次のように記載されている。 元和10年(1624)に雄誉霊巌上人が建立した玄武岩製の四角柱の名号石塔です。総高219センチメートルあります。 北の各面には、北面のインドの梵字に始まり、西面に中国の篆字、東面に朝鮮のハングル、南面に日本の和風漢字と、わが国まで仏教が伝来してきた国々の言葉で『南無阿弥陀仏』と名号が刻まれています。これは阿弥陀如来の救いの慈悲の光があまねく世界を照らして いることを表しています。

このなかでハングルは、李氏朝鮮第4代王世宗が1446年に公布した『訓民正音』という文字で書かれています。それは現在使用されているハングルのもととなった古い文字で、非常に短期間で消滅したため本家の朝鮮でも近年までよくわからなかったものです」

   ・写真<大巌院本堂と四面石塔>

この四面石塔に注目したのは、1624年に刻まれた「初期」ハングルを通じて、16世紀から17世紀初頭の東アジア世界での日本と朝鮮との関係が、安房という地域から浮かび上がると想定したからである。秀吉の「朝鮮侵略」が生み出した日本国内の動きのなかでの、家康らの民衆支配としての宗教政策や、そのもとで雄誉をはじめ、僧侶たちの布教活動の動きなどを探りながら、「南無阿弥陀仏」四面石塔建立の経緯 と、そこに「初期」ハングルが刻字された意味を考察した。結論的に言えば、「朝鮮侵略」後において、日本と朝鮮との間の善隣友好や平和の願いが込められた石塔と、大胆に推理した。

だがこれを教材化するためには、「初期」ハングルの刻字があっても、それに関する史料がまったくないばかりか、石塔の四面に刻字された内容以外は何もわからず、どれも推測の域をでないという弱点がある。

とはいっても、それゆえに歴史の謎をといていく楽しさや推理の面白さを十分に実感させる教材であった。大胆な推理ではあっても、四面石塔が製作された時代背景やそこにかかわる人物、あるいは「初期」ハングルそのものを検討することで、石塔のもつ意義が浮き彫りできると判断した。

 

(2) 世界史授業 単元「16・17世紀の東アジア世界」

ねらい

安房を通して朝鮮・日本をみながら、東アジア諸国家の動きと民衆の想いを理解する。地域教材として四面石塔建立の意味を探り、そこに流れている民衆の平和思想をくみ取る。

授業の展開

(A) 地域にある大巌院の四面石塔建立に関わる雄誉霊巖上人の生涯を紹介し、その時代背景を概観する。

留意点 ・秀吉「朝鮮侵略」や家康の宗教政策のもとでの雄誉
・家康、安房・里見氏、雄誉を結ぶもの
・東アジアの仏教やキリスト教の布教活動、幕府の宗教政策上の民衆支配

(B) 李氏朝鮮の仏教の立場とハングルの歴史を概観する。

留意点 ・ハングルと仏典の関わり
・朝鮮と日本の仏教(特に浄土宗との関わりで)

(C) 東アジア・朝鮮・日本・地域に秀吉の「朝鮮侵略」を概観する。

留意点 ・安房の里見氏と「朝鮮侵略」
・朝鮮人僧侶や拉致された人々(朝鮮人石工や陶工)

(D)「初期」ハングルを刻む四面石塔から推定されること。

留意点 ・朝鮮人僧侶の存在は
・石塔の施主「山村茂兵」とは誰か
・安房に朝鮮人石工や陶工がいたのか

③ 教材研究

(A) 雄誉上人の生涯とその時代

a. 秀吉「朝鮮侵略」の時代~民衆のなかに浄土宗の布教を

雄誉上人は1554年4月8日、今川家一族である沼津土佐守氏勝の三男として駿河国沼津に出生した。この5年前、ザビエルが鹿児島に渡来し「二つの悪魔であるこの釈迦と阿弥陀とを始め、その他の多数の悪魔に対して、勝利を得なければならない」(ザビエル書翰抄)と伝道をはじめた時代である。

11歳のとき、沼津にある浄運寺の増誉長円上人について出家し、得度して肇叡と命名したという。その後15歳で下総国の生実にある大巌寺の道誉貞把上人の門に入り、霊巌と改名するとともに、21歳のときには道誉上人より宗脈を相承した。道誉が死去し安誉虎角上人が大巌寺2世になった。この安誉に浄土宗の徳川家康は帰依し、寺領100石を 与えたので大巌寺とは深い関係になっていった。

1585年、秀吉が関白になると、腹心の一人である一柳末安に「日本国は言うまでもなく、唐国(明)まで征伐する」と大陸征服の意図を明かし、1587年に入ると毛利輝元に九州平定をまかせ、朝鮮渡海の準備を告げるとともに、対馬の宗義智に朝鮮国王の来日交渉を命じている。

1587年、学識も高く人望の厚い雄誉は、34歳で大巌寺3世住職となった。だが3年後、増上寺での報謝法門席後に、雄誉は突然、大厳寺の住職を辞した。これは滅罪論(念仏を唱えればすべて煩悩も罪障ともに消える)をいう増上寺源誉存応と不滅罪論を唱えた雄誉との教義上の対立であり、後に浄土宗論上で鋭く対立していく前哨戦であった。

雄誉にとっての関心は、民衆の気持ちをつかまえた浄土宗の教義になっているかどうかにあった。自らに厳しい宗教的実践を課した彼は、東海道へ旅立ち大和に向かった。途中の近江国で福寿寺や円通寺を再興している。

1590年3月9日、秀吉は大坂城において家康らの賛同をえて「朝鮮侵略」を決定した。また家康は8月1日の関東転封(「江戸御打入り」) を前に、7月23日には寺社領の安堵策として、大巌寺領の安堵状と保護のための禁制とを指示している。つまり新しい領国経営に宗教政策を重視する姿勢をあらわし、江戸増上寺の源誉存応上人との間でも師檀の約を結んで帰依している。

1591年、38歳になった雄誉は、新天地の奈良で永亀山肇叡院霊巌寺を創建し、弟子の念誉廓無を第一座にした。この地を中心に3年にわたって、浄土宗の布教に努めることになる。山城国宇治に専修院称故寺を、滝鼻村には西光寺を創建した年に「朝鮮侵略(文禄の役)」がはじまり、雄誉の周辺は騒がしくなっていった。「文禄の役は日本国内のみならず、マカオ、マニラ、印度、交趾、支那等にまで朝鮮俘虜を氾濫せしめた」(「朝鮮殉教史」)という状況を奈良の地で、彼はどうみていたであろうか。畿内にも多数の拉致された朝鮮人が送られてきたので、布教活動のなかで彼らと接触した可能性は大きい。とくに学問上、朝鮮人僧侶や知識人との文化交流があったであろう。

当時イエズス会士会議では、ポルトガル商人の奴隷貿易にたいして破門の罰宣告をだしたが、キリシタン大名は応じたものの、ポルトガル商人は非キリシタン大名と結託したので、奴隷貿易は続き、拉致された朝鮮人の少なからぬものが、日本で受洗しキリシタンになったといわれる。

この1592年には、家康が畿内で精力的に布教活動をする雄誉の活躍を聞き、伏見城で引見している。その際、関東の壇林(とくに指定された僧侶の研究・教育機関)のためには、どうしても雄誉が必要であるので、家康から戻るよう説得された。その結果翌年には大巌寺住職として戻り寺を改築し、壇林の拡充にあたった。

この頃、浄土宗内で煩悩と罪障をひとつとみるか、二つにみるかの煩悩の滅罪の宗論対立が本格化した。当時政治的に権力者側に立つ仏教がふえつつあったので、その中にあって、信仰の純粋性を説く日蓮の教義が、大きく人心をとらえていただけでなく、「朝鮮侵略」のなかで民衆の生活が困窮してきたことで、とくに関東では日蓮宗の不受不施派が民衆に広く浸透していった。このことは浄土宗にとって、布教上大きな障害であった。壇林である大巌寺の住職である雄誉は、布教のためには民衆の気持ちがわかる僧侶の養成に努めただけでなく、民衆の思いにあった教義として、煩悩の不滅罪論の立場をとっていた。

1598年8月18日、京都伏見城で秀吉が62歳で死去したことで、10月家康らは朝鮮の日本軍に秀吉の死を伝え、撤退の指示をあたえた。家康は1600年2月、小西行長に対して朝鮮に講和を求めるために捕虜を160名送還することを指示し、2年後には宗義智に命じて朝鮮との修交を計画した。

1603年、滅罪論をとる増上寺の源誉存応は、雄誉が不滅罪論を主張することは面白くなかった。家康との関係を背景に存応は、浄土宗内の教義を民衆の布教の立場からではなく、結局はときの政治に貢献する立場として権力的政治的に扱ったので、不滅罪論を主張する9名の僧侶の追放を知恩院に命じた。(「増上寺史料集」の記述には、『増上寺報謝法門 の席で論争するが、法門での狼籍の罪で雄誉上人は伊豆国大島に左遷。大巌寺から追放の身になり、その後安房国大網に蟄居し、草庵を結ぶ』 とある)

 

b. 安房から始まる雄誉のたたかい~活発な布教活動と寺院創建

家康が征夷大将軍に就任した1603年、50歳になった雄誉は安房国の山下郡館野大網村に現れ布教を開始した。家康ともつながる高僧雄誉の存在を知った安房の9代目支配者里見義康は、もと禅宗の寺院と寺領を寄進してきた。雄誉はここに仏法山大網寺大巌院を創建し、安房の浄土宗の中心となるように檀林や所化寮をつくった。

さらに布教活動を安房から上総に広げた雄誉は、松平紀伊守家信の母で故人となった里安禅定尼のために、1607年五井の守永寺を手始めに、上総湊の湊済寺や小糸の三経寺、姉ケ崎の最頂寺、下湯江の法巌寺、そして千葉生実の大覚寺などつぎつぎに創建し、活発な活動を展開した。

この間に第1回の慶長度朝鮮(通信使)回答兼刷還使467名が、修好のため江戸に来て、1418名の朝鮮人捕虜が刷還されている。この出来事は雄誉も知っていたはずで、民衆に密着した布教活動をすれば、拉致されてきた朝鮮人たちとも接触したであろうし、なかには帰国を幕府に口添えしてほしいと依頼された可能性はある。「朝鮮侵略」の時期に奈良を中心にすでに朝鮮人捕虜と関わりをもち布教活動をしていた可能性もあり、この刷還事業に雄誉は積極的に取り組んだと推測したい。

1607年頃、日蓮宗不受不施派の日経は関東各地で念仏堕獄の説を唱え、浄土宗布教活動に挑戦してきた。翌年11月15日、日経は江戸城で浄土宗との法論後、家康から僧籍を剥奪されたうえに罪人にされた。駿府の家康は民衆支配のために宗教政策を重視し、板倉勝重と南禅寺金地院崇伝に寺社係りを命じるとともに、民衆に支持されていた日蓮宗不受不施派やキリシタンへの警戒を強めながら、しだいに圧迫を加えていった。

1609年に安房国の支配者10代目の里見忠義(16歳)が雄誉に帰依したので、円頓の妙戒が授与された。その際、忠義は42石の永世朱印状を大巌院に与えている。従来忠義が大名として軽率な行動が多いので、それが結果として里見家改易の理由のひとつにされているが、若くして雄誉に帰依したところをみると信仰も厚く、今まで伝承されているような人物とは思えない。のち伯耆国に転封された忠義のもとへ、わざわざ雄誉が訪ねていったことを指摘しておきたい。

またこの4月には、家康が強く望んでいた朝鮮との貿易条約(「己酉約条」)が結ばれ、幕府と朝鮮との友好善隣外交がスタートしている。さらにこの年、上総国の佐貫城主内藤政長から雄誉は、佐貫善昌寺の住職にと懇願されたうえ、壇林所化寮を造営するので僧侶の養成も要請された。そこで大巌院を弟子の霊誉にまかせ、安房を離れることにした。

 

  1. 家康、里見、雄誉を結ぶもの~安房・上総から西国行脚へ

1612年2月に岡本大八事件がおきた。これは家康の重臣筆頭本多正純の与力で、キリシタンの岡本大八とキリシタン大名有馬晴信との疑獄事件である。大八は朱印状を偽造し、有馬が長崎奉行の暗殺計画をしたので、関東代官大久保長安が、大八の取り調べにあたり、3月には火刑に処している。

この事件で家康のいる駿府でも、旗本や侍女の間にキリシタンが存在していることが発覚した。そこには「ジュリア・おたあ」というキリシタン大名小西行長によって、朝鮮から日本に送られてきた戦争孤児がいた。彼女は九州宇土城の行長夫人ジェスタのもとに送られ、養女として育てられたうえ、受洗しキリシタンになった。関ヶ原後の行長処刑でジュリアは、伏見に送られ家康の大奥にはいり、その後駿府に移った。家康はあらゆる手段をもってジュリアを説伏せよと命じたが、棄教を拒否したため家康の怒りをよび、伊豆諸島(神津島)に流刑になったという。神津島の流人塚のなかに朝鮮式の塚が発見されているが、まわりには日蓮宗不受不施派の流人墓がある。この伊豆諸島が雄誉上人や弟子たちの布教地域であったことを忘れてならない。

ところで大久保長安は三河以来の家康の譜代で、秀忠の重臣大久保忠隣と懇親であった。大八事件を境に幕閣の頂点の大久保忠隣と本多正信・正純父子との対立が激化した。3月11日には家康はキリシタン禁止を宣言している。(駿府家臣団への探索をし、原主水など14名を改易追放)そして8月6日にはキリシタン禁令を諸大名に公布している。

1613年4月25日、大久保長安(65歳)が死去したことで遺産争いが起こり、本多正純による裁判になった。その結果長安の不正蓄財が発覚し、遺領は没収されたうえ一族には切腹が命ぜられた。これを機に正純は大久保忠隣の排斥を画策した。この年10月1日、里見忠義の叔父里見讃岐守義高(上州板橋1万石)が改易されている。12月に は伴天連追放令が発布され、京阪の宣教師追放の総奉行に大久保忠隣が起用された。1614年1月5日、大久保忠隣は京都の教会堂を破壊し、さらにキリシタンを検挙拷問のうえ、禅宗か浄土宗に帰依させる転宗を強力に押し進めた。この京阪地方の「ころび者」から寺手形とりたてたのが、寺請のはじまりといわれている。

1614年1月19日、大久保忠隣が改易された。家康にとって幕閣内の政争の処理をするために伴天連追放問題を取りあげ、政権分裂の危機を結局、忠隣の改易で乗り切ろうとしたとも思われる。ただ表向きの改易理由は、養女を無届けで嫁に出したということにあった。1月30日、忠隣は彦根の井伊家で蟄居を命ぜられた。

そして9月9日には、忠隣に連座して里見忠義が改易された。結局は江戸湾の入り口にある安房の里見水軍は、豊臣対決に備えていた家康にとって無視できない存在であり、できれば徳川水軍のひとつに組み込むことをねらっていた。幕府にとっては、様々な理由をつけて里見氏を排除しなければならなかった。里見忠義は9万2千石を没収されたうえ、鹿島領の替え地として伯耆国に転封された。

9月11日に、家康は念には念を入れて諸大名に幕府に対して、二心なき旨の誓書を提出させた。9月16日里見の館山城の請け取りは佐貫城主内藤政長と大多喜城主本多忠朝があたった。それなりの家臣による抵抗はあったと思われる。この間の様子を内藤政長のもとにいた雄誉は、どのように見ていたであろうか。10月1日の大坂冬の陣と、翌年4月6日には、家康自らが本陣の浄土宗一心寺から総指揮をした大坂夏の陣によって、豊臣氏をとうとう滅ぼしたのであった。

1615年8月、62歳になった雄誉は法然上人の祖跡(霊場)を参拝する西国行脚に弟子たちとともに出発した。なぜこの旅が計画されるに至ったかは不明であるが、考えられることはふたつある。ひとつには、 豊臣氏滅亡後の情勢をよく見極めたうえ、法然の思想や行動の原点をたどることで、雄誉なりに幕藩体制下での浄土宗の布教や教義のあり方を探ろうとしたのではないか。ふたつには、大坂の陣で陣頭指揮をとった 家康も健康を害し、自分の亡き後の支配体制で憂いていたことの一つが、宗教上での民衆対策であった。大坂の陣後の社会不安のなかで、キリシタンや日蓮宗不受不施派の浸透をくい止めながら、人心を掌握する、きめ細かな宗教政策を強力に押し進める必要があった。民衆のなかに入って布教し、また民衆から信頼の厚かった雄誉の助言は、政策を作成するうえで参考にあったであろう。後々、雄誉が知恩院住職に推され、徳川家と浅からぬ関係になったのも、雄誉が西国行脚で示した僧侶としての力量の大きさやエネルギッシュな布教活動が無視できなくなったと思われる。

まず佐貫の善昌寺から浦賀に渡り、鎌倉の光明寺で良忠上人の墓(浄土三世の良忠上人は上総国で布教活動をした)を参拝した。そして生国である沼津の浄運寺から伊勢山田の天機院、赤桶の心光寺へ向かった。そして深野では来迎寺を創建し、奈良では霊巌寺に逗留した。さらに大坂から乗船、美作国では誕生寺を参詣している。

この西国行脚の間の1616年4月17日には、家康が75歳で没している。そして8月8日にはキリシタン禁制の徹底が図られ、また外国船の平戸・長崎への集中令が発布された。翌年の8月26日には、豊臣氏の滅亡を祝した第2回の朝鮮通信使(回答兼刷還使)が来日している。この朝鮮通信使とは、旅の途中で接触する機会があったと思われる。雄誉の弟子の一団に朝鮮人がいるとすれば、この西国行脚の目的のひとつ に通信使との接触や朝鮮人の刷還運動をスムースにすることをねらっていてもおかしくはない。

前述したように、9月に雄誉は伯耆国の里見忠義を訪れている。ここではどんな話をしたのであろうか。この伯耆国では赤崎に専称寺、穴鴨に大雲寺を創建し、また出雲国では別願院、松江に極楽寺、石見国では三隅庄に極楽寺と創建しながら、長門国の下関から豊前国の小倉に入り、筑後国の善導寺で七日間不眠念仏をおこなったという。そこから安芸国の厳島神社に参拝してから、備前国では霊厳寺を創建し、1618年に大巌寺での兄弟子満誉尊照上人が住職の京都知恩院に到着している。ここで7日間の参篭をおこない、さらに伊勢山田に向かい松風山霊巌寺を創建した。翌1619年、上総国佐貫に無事到着し4年にわたる西国行脚を終えた。その間に雄誉は30余寺の創建、再興にかかわった。とくに壇林の大巌寺住職で育った西国の僧侶たちが、雄誉へ深い信頼を寄せただけでなく、西国行脚は浄土宗の布教拡大にも大きな役割を果たしたのであった。

雄誉は疲れも見せず、再び上総や安房で精力的な布教活動に入っている。安房の保田に琳海山別願院や金谷では本覚寺、岩井の検義谷に本誓山大勝院を創建した。雄誉はとくに上総を活動の本拠地にし、江戸よりの招待にも応えていた。1621年には、江戸と上総との中継地であった江戸の茅場町に草庵をつくり、説法をはじめている。また檀家の堀庄兵衛が向井將監忠勝から沼地の埋め立て許可もらい、仮堂を作ったのもこの頃である。

1622年に後水尾上皇への説法の招待を受けている。またこの年には、幕府から新寺院の建立と、私に寺院号を称することがともに禁じられた。1623年7月19日、70歳の雄誉は江戸城に呼ばれ、徳川秀忠と家光のために説法した。7月27日には家光が3代将軍を襲職している。10月13日、キリシタンの原主水ら55名が江戸芝札の辻で処刑されるなど、家光によってキリシタン禁制が強化され、弾圧の嵐が吹くことになる。

 

  1. 霊巌寺創建と四面石塔の誕生

・写真<大巌院四面石塔の現況>

1624年、雄誉(71歳)は江戸に道本山霊巌寺を創建した。この年、館山の大巌院において(石面に「元和10年3月14日」と刻字)施主「山村茂兵」夫妻が逆修(死後の冥福を祈念するため生前に戒名をもらうこと)の儀式をうけ、「建誉」号が授けられている。その夫妻はお礼として水向けをつけ、4種類の文字で四面に「南無阿弥陀仏」名号を刻んだ石塔を寄進した。ここには「初期」ハングルが刻字されているとともに、雄誉の名と花押とが刻されている。

梵字、篆字、ハングル、漢字の文字を刻んだ四面石塔の建立の意味は、「四海同隣」をあらわしたとの解説もある。ところでこの年2月30日には、元和が寛永に改元されたので、実は寛永元年であった。大巌院本堂前には「霊誉元和10年2月15日」「光誉寬永2年」(1625年)と刻まれた2基の石灯籠がある。「深川霊巌寺志」によると、1624年という年に創建された寺院は、雄誉の弟子で房州長田村人の照蓮社光誉利天が、安房に大圓寺を開山したのをはじめとして、大厳院未寺のなかでは、滝川村の三善寺(然誉)や柏崎村の浄閑寺(心誉)、中村の正安寺(照誉) などがある。これらの寺院創建が江戸の霊巌寺の創建とどう関わるかは不明である。

1629年、江戸霊巌寺の諸堂は完成し、雄誉は佐貫の勝隆寺から本尊を運んでいる。この年の6月25日、雄誉(76歳)は浄土宗総本山知恩院の第32世住職に任命された。しかし4年後の1633年1月9日、知恩院が大火になり大部分が焼失した。4月7日、雄誉は江戸参府し、家光より再興の命をうけた。12月には再建工事とともに、大梵鐘鋳造の発願がされ、勧進帳と募財の運動がはじまった。この年2月に第1次のいわゆる「鎖国」令がでた。1635年5月ころには寺請制度が全国的に実施された。12月13日には第4回朝鮮通信使が来日した。12月17日から21日まで通信使は日光に参詣し、24日に江戸に到着している。(「雄誉上人伝記」と「霊巌和尚伝記」には大巌院に通信使が立ち寄り、雄誉上人筆の偏額「大巌院」をほめたと記載されている)1641年1月19日に京都知恩院が落慶供養、3月には雄誉は江戸に参府し、6月14日には家光に自然法問を講義している。そして9月1日、88歳の雄誉上人は江戸霊巌寺で没したのであった。

 

(B)李氏朝鮮の仏教とハングルの歴史を概観する。

韓国内では「初期」ハングルで刻まれた石塔は、現在まで発見されていないという。李氏朝鮮でも僧侶たちは仏典をハングルに翻訳し、民衆に布教活動していた。しかし儒教中心のなかで、仏教への弾圧がしばしばおこなわれ、とくに16世紀にはハングルの使用も禁止され、仏典や仏塔にたいする破棄破壊が繰り返された。ただ李氏朝鮮後期に浮屠塔として、僧侶の墓地にこの種の石塔が建てられたこともあるといわれている。これが大巌院四面石塔とどうつながっているかは不明である。

まずハングルの歴史をみる。1418年に李氏朝鮮の第四代国王世宗が即位すると、学ぶ機会のない民衆、農民が自分たちの意志を十分にあらわせないので、「無実の罪をきせられても、文字を知らない民百姓は、それに抗弁し、釈明する手段がなくてかわいそうだ」という理由で国字創制の指示が出されたという。1438年、創字のため中国の音韻学を参考に、アルタイ語系に属する韓国語の音韻表記の研究が開始された。また新羅時代から「吏読」という漢字の音や訓で朝鮮語を表記する方法も参考にされた。1442年12月に基本的骨組みが作られ、ハングルの字形がほぼ完成されたと思われる。翌年12月正式に国家事業になり、正音庁が発足した。しかし国王の側近の漢学者(中国を宗主国とする事大主義)が根強い反対をしていたためか、公表されなかった。

1446年9月29日国字は完成し、「訓民正音(28字)」と命名され、世宗により公布された。(前述より「初期」ハングルと記した)このとき仏徳をたたえる「釈譜詳節」(1447年)や「月印千江之曲」(1449年)、後にこの二つを合わせた「月印釈譜」(1458年)などの詩歌などが編纂され出版された。前出の二つの書籍はともに甲寅字体ハングル活字(木活字)で印刷された最古のハングル活字本である。

仏教界をみると、1461年に世祖によって刊経都監が設置され、法華経・金剛経・円覚経・永嘉経などの仏典がハングル訳で出版されている。これが「仏教諺解」であり、なかでも注目されるのが1464年、世祖自身が「仏説阿弥陀経(阿弥陀経諺解)一巻」をハングルに翻訳し、1558年には双渓寺覆刻として開版された。この仏典には甲寅字体ハングル活字による「初期」ハングルの「南無阿弥陀仏」が、印刷されていたと思われる。この字体と大巌院四面石塔の「初期」ハングル字体とが、よく似ていることを指摘したい。

ところで室町幕府の統制下で日本朝鮮間の貿易がおこなわれ、ハングルで書かれたものを含め仏典や版木などが日本に輸入され、朝鮮仏教と接触していた。だが、1592年から7年にわたる秀吉の「朝鮮侵略」によって、大量の仏典や金属活字が略奪され、ハングル訳仏典も数多く日本へ流出したといわれる。秀吉だけでなく、家康なども大量の仏典や書籍を手にいれたことで、壇林を中心にして関係浄土宗寺院に流れたことを忘れてはならないだろう。

 

 (C)東アジア・朝鮮・日本・地域から秀吉の「朝鮮侵略」を概観する。

1592年から96年の朝鮮侵略(文禄の役)は「壬辰倭乱」と呼ばれ、秀吉軍15万8,700人が渡海している。とくに安房の里見義康についてみると徳川家康に従い、九州名護屋に出陣している。「朝鮮国御進発之人数帳」によると肥前国名護屋在陣衆合7万3,620人のうち150人が安房侍従(里見義康)の兵であり、朝鮮国船手之勢合9千200 人のうち850人が堀内安房守との記録がある。また1597~98年の朝鮮再侵略(慶長の役)は「丁酉再乱」と呼ばれるが、里見義康は家康に従い京都までの出陣で終わっている。このとき朝鮮からの戦況報告は、日本軍の苦戦や窮状を告げるものばかりであった。この2度にわたる侵略軍によって多数の朝鮮人が拉致されたが、目的は学者文化人や技術者によって藩の教学、財政の立て直しをさせるためであったという。またポルトガル商人との奴隷売買のために人さらいをしていたとの記録もある。

 

 a. 朝鮮人陶工では

秀吉は毛利輝元に命じて、朝鮮の有名陶工を招来することを指示している。輝元は李勺光(李敬の兄)を朝鮮から連行し、大坂で秀吉に拝謁させているが、その際李勺光は秀吉より毛利預けとなり、さらに朝鮮より弟の李敬夫婦や一族郎党を呼び寄せたといわれている。関ヶ原後、毛利が山口の萩に入府されたことで、李勺光は城下松本中之倉で窯を設け、松本窯をはじめた。さらに領内に点在していた古い窯を復興し、深川窯などもおこした。これが後の萩焼である。

李勺光は職名を御細工人として藩より氏姓「山村」を賜い、帰化している。山村家「伝書」によると、初代「山村」は妻を娶り男子を一人もうけたらしいが、確かなことは判然としない。2代目は山村新兵衛光政 (松庵)といい焼物所総都合〆の職についている。李勺光の弟子の李敬は 坂本助八と名乗り(後に坂と改姓)「高麗左衛門」の名をもらっている。

また黒田長政によって連行されてきた朝鮮人陶工八山は、筑前(直方市)の永満寺宅間で高取焼をはじめている。1614年には内ケ磯に移住し藩命で小堀遠州のもとで茶陶の勉強をさせられたことから、遠州高取焼がおこった。1624年に第3回朝鲜通信使が来たとき、八山は2代藩主に帰国を願い出るが、勘気にふれ山田村に蟄居を命ぜられ、帰国できなかった。

 

  1. 朝鮮人需学者では

拉致されてきた朝鮮人需学者であった李真栄・梅渓の父子をみると、1593年の壬辰倭乱(文禄の役)のとき23歳の李真栄は、浅野長政の軍兵によって拉致され九州名護屋へ連行されていた。1604年、朝鮮から探賊使の僧侶惟政(松雲大師)らが来日し、家康の意をもって、1390名の捕虜を刷還している。そのことから1606年に李真栄は 刷還を希望したが受け入れられなかった。1607年に第1回朝鮮通信使は回答兼刷還使として1418名の捕虜を刷還している。このとき李真栄は大坂へ連行され、物乞いをしながら生きながらえていたが、重病になる。和歌山海善寺岸松庵(浄土宗) の「西誉」(朝鮮人僧という)に助けられたことで仏門に入るが、なじまなかったので再び大坂へでて易者になったという。しかし1614年の大坂冬の陣で大坂を離れ、再び西誉を頼って和歌山へ来た。和歌山久保町で寺子屋を開き、その後宮崎定直の娘と結婚、全直(梅渓)・立卓の2子が誕生している。真栄は号を一陽斎とした。1619年家康の10男頼宣は2代将軍秀忠より紀州藩55万石を与えられた。頼宣は1626年紀州藩侍講として李真栄(56歳)を起用した。1633年に真栄が63歳で死去(現海善寺に墓)すると、子の李梅渓(17歳)が侍講に起用された。1655年に第6回明暦度朝鮮通信使が来たときは、頼宣に随伴して梅渓も江戸へ行っている。

 (D)「初期」ハングルを刻む「四面石塔」から推定されること

 ・写真<石塔に書かれた文字>

a、朝鮮人僧侶の存在は

なぜ日本に「初期」ハングルが刻まれた石塔があるのか。まず考えられることは、「朝鮮人僧侶」が布教のため、仏教の盛んな日本にきたのではないかということである。当然室町期の朝鮮貿易のなかで仏典・書籍の輸入とともに渡来僧がきたというのはごく自然なことであった。仏典・書籍では前述したように、「初期」ハングルの「南無阿弥陀仏」を活字体で考えると、1464年の世祖によるハングル訳「仏説阿弥陀経(阿弥陀経諺解)」と類似している。秀吉の「朝鮮侵略」により拉致されてきた僧侶たちには、のちに活躍する誕生寺の日延(日蓮宗不受不施派として対馬にのちに遠流) や熊本本妙寺の日遙上人、さらに京都黒谷山内の金戒光明寺西雲院開基の宗巌などがいる。

浄土宗の宗巌は、1605年知恩院の満誉尊照上人について剃髪出家し、1616年京都黒谷に草庵を結び、一千日念仏別行の願を立てて、1628年53歳で死去している。宗巌は萬日行願をたてた念仏行者で、厳格な修道生活を実践し、徳行の高い僧侶であったというが、浄土宗黒谷金戒光明寺誌には詳しい記載がない。知恩院住職の満誉尊照は雄誉の兄弟子であり、金戒光明寺住職は雄誉と同輩の琴誉盛林であった。つまり、朝鮮人僧宗巌のまわりに雄誉の関係者がおり、西国巡礼の時には満誉や琴誉を通じて、接触できる状況にあったし、弟子に朝鮮人がいたとなれば弟子のために宗巌と会った可能性は高い。

「朝鮮侵略」以前に朝鮮人僧侶が渡来した場合、学問所である関東十八壇林などで、あるいは大巌寺において雄誉などと学間的な研鑚をつむこともあったろう。朝鮮人僧侶たちは仏教弾圧にもかかわらず、民衆に根ずいていたハングル仏典を通じて浄土思想を普及させたり、ハングル刻字による「南無阿弥陀仏」名号塔の建立など民衆のなかに平易な念仏による浄土宗の布教を実践してきたとなると、民衆への布教に心を砕いていた雄誉が彼らに共鳴し、大いに関心をもったとしてもおかしくはない。またこの動乱の16世紀末に朝鮮人の弟子たちが、拉致されてきた朝鮮人たちを布教活動のなかで励ます姿が浮かび上がってくるのである。

 

b. 「西誉」という人物

次に「西誉」という人物を考察してみたい。前述したように「儒学者の李真栄は大坂に移され、物乞いをしていたが重病になり、和歌山海善寺岸松庵の『西誉』(朝鮮人僧)のところに身を寄せ、衣食の給与をうけながら療養した」(「玄海灘に架けた歴史」姜在彦著 朝日文庫)という出来事があった。もしこの「西誉」が雄誉の弟子としてかかわっていた場合はどうか。つまり「深川霊厳寺志」にあらわれた雄誉上人の弟子の「西誉」は「紀州醍醐人霊巖上人弟子で、慶長十四年宇治五鈷山善法寺を中興し、慶安四年に死去」している。また「増上寺史料集第六巻」にも「天羽郡百首村 壽榮山無量寺開山西誉、於小金東漸寺留学、天正元年起立、慶長八年春三月三日寂」と記述されている。さらに和歌山と大坂とに共通する「西誉」を探ると、「西成郡北傳法山西念寺中興開基 方運社西誉玄賀上人、生国讃州鹽飽慶長二十年六月十四日」との記載もある。このようにみると「西誉」号はポピュラーで、蓮社名での類推や年代からの推定にも史料不足で、その特定は難しいと思われる。現在浄土宗西山派の和歌山海善寺の「紀州海善寺と日鮮親和の一史料」によると、「西誉」は元朝鮮の下官人と記述されているので、秀吉の侵略で拉致されてきた人物ではなさそうである。少なくても1607年ころから1614年まで海善寺岸松庵にいたと推定される。また雄誉の弟子往蓮社「西誉」窓月については、1609年に京都宇治に善法寺を中興したという事実だけしかわからないが、ただこの両「西誉」が関西の地で、ほぼ同一年代に活躍していることは確かである。

さらに、この「西誉」の関係を「海善寺」という寺院名と雄誉との関わりから推定すると、海善寺という浄土宗の寺院が伊豆にもあったということである。安房に接する伊豆海域諸島は雄誉や弟子たちの布教地域であり、寺門も創建され伊豆の海善寺系列をつくっている。もし紀州の海善寺と関係していれば、雄誉との関わりのなかで両方の「西誉」とのつながりが明らかになるかも知れない。

 

  1. 四面石塔の施主「山村茂兵」とは誰か

「初期」ハングルを刻む四面石塔の施主「山村茂兵」とはいったい何者か。石面には次のように刻まれている。

「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修,干時元和十年三月十四日房州山下大網村大巌院檀蓮社雄誉(花押)」

「建誉」号から考えられることは、浄土宗の教義では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより極楽浄土に往生できのだが、「五重相伝」をうけて浄土宗の教えを受容したもののなかで、とくに優れた人間はその栄誉を讃えて、戒名に「誉」号が授与されるという。つまり、「山村」は庶民ではない。また逆修から考えられることは、施主「山村」夫妻は逆修の儀式をうけ、さらに「建誉」号をつけたところをみると、かなりの資産家であり、武士に近い待遇を受けているものか武士扱いを受けているものと思われる。

さらに石塔の石材をみると伊豆半島産の安山岩であり、江戸初期に伊豆地域から安房の船を使用して、江戸城建設のために大量に運ばれた石材と思われる。庶民では使えない高価な石材を石塔に使っていることは、それなりの地位の人物であったと思われる。また、幕府公認の壇林霊厳寺の建設には、石材の入手に幕府が便宜を図ったであろうし、技術の高い石工が動員されたであろう。その石工のなかに拉致されてきた朝鮮人石工がいたと考えられる。築城における石工は軍事機密をあつかう存在なので、かなりの格式と資産を保障したであろう。「山村」が朝鮮人石工であってもおかしくはない。現在調査中であるが、奈良地域にいた朝鮮人石工と思われる「山村」という人物が、浮かび上がってきている。

では「山村」は漢字・サンスクリット・篆字・ハングルの四字体で刻んだ「南無阿弥陀仏」名号の四面石塔をどうして製作させたのかということである。県文化財の説明のひとつに「四海同隣」、つまり阿弥陀仏の力であまねく浄土世界になることを願った四面石塔と記述されているが、寄進した「山村」なる人物が、本当にこの理念をもって建立したかは判断できない。もしこの人物が日本人であれば、そのような理念を意識する何らかの体験をしない限り、自から望んで、ハングルを含む四面石塔の製作を依頼しないであろう。

当時、「四海同隣」思想や理念が仏教界にあったとすると、なぜ朝鮮のハングルが四面のひとつの字体に選ばれる必要があったか。またインドから中国、朝鮮を通って、日本へと仏教が伝来してきた道を、それぞれの国の文字で表したとする別の説明もある。そうすると「四海」のひとつが朝鮮としても、なぜ朝鮮にとって正字ではなく、「諺文」と呼ばれたハングルが選ばれたかは疑問である。やはりこの四面石塔は朝鮮人関係者らによって、意図的にハングルが選ばれ、ある理念を伝えたかったのではないか。

「南無阿弥陀仏」の理念が、浄土という平和な社会をもとめる気持ちを含んでいるので、平和でない社会にいた人物、つまり戦争を体験した人物がその理念をハングルに込めたかったかもしれない。さらに「山村」 がもし日本人であれば、その理念をあらわすためには六字名号「南無阿弥陀仏」だけで十分であり、自分の逆修ために寄進した石塔に、ハングルが必要であったかどうか。

こう考えると日本名をもった朝鮮人が、朝鮮人僧侶とともに、秀吉の侵略後の日本と朝鮮の善隣友好と平和のために建立した石碑ではなかったかという推理が浮かぶのである。

石面に刻字するには、ハングル訳仏典さえ手元にあれば、朝鮮人僧が浄土宗にいなくても、石面にハングルを刻むことはできるだろう。だが日本人であれば、そうはしないであろう。また「山村」なる人物が朝鮮人であったとしても、個人のおもいで四面石塔を製作したであろうか。やはり朝鮮人僧侶のアドバイスなしにこの四面石塔は存在しなかったと思う。その理由を石塔に刻まれている讃偈から考察したい。

石塔には、善導大師撰の偈文である

「門門不同八万四 為滅無明果業因 利剣即時弥陀号 一声称念罪皆除」

を使用している。この讃偈は石塔の建立の意味を暗示しているかもしれない。内容は「いかに法門が多いとしても人間の果業を明らかにさせることが難しいので、それを克服しようとすれば、ただちに『南無阿弥陀仏』を一声唱えれば罪みな除かれる」という意味である。

「伝授抄」という僧侶が檀家や信者に対する宗教活動上に必要な伝法がある。そのなかの寺持僧や寺の役目を書いた「化他ノ用意」の章に「亡魂往来之大事」の項がある。ここでの説明に「幽霊がくるという人や死んだ人の姿を見るという人に対して、その亡魂のくると思われるところに讃偈の『門門不同八万四⋯一声称念罪皆除』を木に書いて立て、夜戌の刻に亡者の法名に対し回向せよ」とある。

とするなら、「山村」は誰かの亡魂が今も救われていないので、鎮魂しようとしたのかもしれない。ではそれは誰か。もし「山村」や僧侶が朝鮮人であれば、秀吉の侵略で殺された人々はもちろん、拉致されてきて異国の日本で亡くなった人々の亡魂が鎮魂されていないと考えるのがごく自然である。つまりこの石塔にはどうしても朝鮮民衆の文字であるハングルによって、「南無阿弥陀仏」と刻まれる必要があったのである。

大巌院の「山村」はなぜ姓名を日本人にしているのか。やはり四面石塔のもつ理念を知らせたいがゆえに、姓名にはこだわらなかったのではないか。また雄誉の了解なしに花押が刻まれないことを考えると、房総で最も権威のある僧侶である雄誉の承認を得て、安房の浄土宗の中心である大巌院内に建立することは、朝鮮人「山村」と雄誉上人の弟子の朝鮮人僧侶が、石塔の存在とその理念を後世まで残したいという一心であったのではないか。石塔に水向を付けているのがその証と思う。

この理念が「山村」夫妻の逆修の儀式とつながっていると見なしたい。 秀吉の「朝鮮侵略」で拉致されてきて以来、30余年になる異国ぐらしも年を重ねるたびに、母国朝鮮への思いが募り帰国の希望をもったが、この手続きは結構面倒であったので、雄誉を通じて幕府への直訴を依頼したのではないか。幕府への働きかけが成功し、四面石塔が建立された年に来日した、第3回朝鮮通信使の刷還に加えられたと考えられないであろうか。帰国できるお礼もあり、雄誉から逆修の儀式をしてもらい、水向けが付いた四面石塔を寄進することで、日本と朝鮮との不戦を誓い、そして善隣友好や平和を願ったものであると私は推定した。

 

【3】 おわりに

雄誉と「山村」を結んでいるものが、16世紀末の秀吉の「朝鮮侵略」あると判断する資料は、このように乏しい。しかし1624年建立の 「初期」ハングルを刻んだ四面石塔は、十分な資料がなくても現に我々の目の前に存在し、370年の時空を越えて訴えるものがある。それは不戦の誓いであり、善隣友好と平和の思いである。

この種の石塔の存在が朝鮮・韓国から報告がないのは、朝鮮総督府による植民地支配のもとで、国内にある秀吉との戦いを子孫に伝えるべく建立されたあらゆる種類の痕跡を抹殺したからである。ハングルは李氏朝鮮に対するたたかいのシンボルであったように、日本の植民地支配のもとでも民衆の心に刻まれた文字であった。一方、京都にある耳塚や高野山にある島津氏建立の「高麗陣敵味方供養碑」が、結局時の権力者の都合のよい解釈のもとで、秀吉の人物像や日本の朝鮮支配に利用されてきたことを知らなければならない。

今日、日韓の歴史教育の分野では民間レベルにおいても様々な取り組みがなされてきた。加害教材の組立てだけではなく、時の権力者のもとで、ともに苦しんでいた民衆レベルの平和や連帯の動きがどうであったかの教材も求められている。そのひとつが、地域から掘り起こされてきた民衆と朝鮮通信使との関わりであったろう。私は、四面石塔の地域教材は石塔建立をめぐる人々の動きのなかに、いま日韓の歴史教育が求めている教育内容を含んでいると確信している。推定や謎の多い教材であるが、歴史に携わる方々の力をお借りして是非ともその全貌を明らかにしたいと思っている。

最後になるが、雄誉上人の伝記から伝承される大巌院と朝鮮通信使との関係を紹介する。1636年第4回宽永一三年度朝鮮通信使について、「霊巌和尚略伝」三巻(天和三年・館山市立博物館蔵)には「唐人数多日本へ来たり天下の御目見し江戸より日光え参詣しそれより直に下総上総安房三ケ国次第に至り名所旧跡見物せしめ房州に至りぬれは国中第一の大寺なれは案内者の指図にて大巌院へ誘引す唐人上官の人々本堂えあがり先つ正面の額を暫く詠め此の額はなんと伝ふ人の書たると尋ぬ寺僧指出是れは当寺の開山名をは霊巌和尚と申す人の筆跡なり」と記載されている。ただ上記の伝記には「初期」ハングルを刻んだ四面石塔の記述はないが、それはどうしてなのか。また朝鮮側の通信使日記に記載があるかどうかを今後の課題にしていくつもりである。

 

 《主要参考文献》

・「霊巌上人」知恩院1990年
・「霊巌上人略伝」(浄土宗全書第20巻)1972年
・「深川霊巌寺史」(浄土宗全書第17卷)1972年
・「知恩院史」1937年
・「論集日本仏教史7 江戸時代」(雄山閣)1986年
・「近世念仏者集団の団の行動と思想」長谷川匡俊(評論社)1980年
・「千葉県浄土宗寺院誌」1982年
・「朝鮮仏教史」鎌田茂雄(東大出版会)1987年
・「文禄慶長役における被虜人の研究」内藤雋輔(東大出版会)1970年
・「ハングルの成立と歴史」姜信坑(大修館書店)1993年