嘉納治五郎と安房高の柔道と水泳と野球

講堂館に行ってきました。

日本柔道の父・嘉納治五郎は、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長時代、身体鍛錬は教育の基礎として、柔道を水泳を推奨し、安房北条町(現・館山市)で水泳練習を始めました。治五郎も毎年来房し、学生を激励しました。日本で最初の第一回関東連合遊泳大会も、鏡が浦(館山湾)で開催されました。

柔道八段、水府流太田派を極めた東京高師の師範・本多存(ほんだありや)は、地元の安房中学も指導し、カッパ中学と呼ばれる日本一に導きました。だから、安房高には今でも、古式泳法部、水球部などが伝統なのですね。本多師範の墓所は、北条の金台寺にあり、今も墓参者が絶えません。

嘉納治五郎の姉・勝子は、海軍水路部の軍人・柳楢悦(やなぎならよし)の三番目の妻で、民芸運動で著名な柳宗悦の母です。嘉納家は勝(海舟)家・柳家と親しかったため、娘は勝子・柳子と名づけられました。
楢悦が亡くなった後、義弟の治五郎は父代わりとなって甥たちを育てます。とくに、宗悦の兄・柳悦多(よしさわ)は、幼い頃から嘉納塾で柔道を仕込まれます。楢悦が創設に関わった水産講習所(元の水産伝習所、後の東京水産大学、現・東京海洋大学)で学んだ悦多は、同所の実習場があった館山町で漁船2隻をもち、安房中学で柔道を野球を指導します。治五郎も、明治期に伝来した野球を試みたけれど、あまり得意ではなかったようですが、この甥との関係から、治五郎は安房中学で講演をしていたようです。

1923年9月1日、悦多が野球部で講演をしていた折、関東大震災が起きました。生徒を逃がして命を守った後、悦多は校舎の下敷きとなり殉職しました。これは、戦後の安房高で長く漢文教育をされた柳悦清(よしきよ)先生のお父上のことです。柔道や水泳ばかりでなく、安房高の野球部が強いのも、こうした先人指導者のおかげなのですね。深謝!