小谷 仲治郎

小谷 仲治郎(Kodani Nakajiro)
1872(明治5)~ 1943(昭和18)


1972(明治5)年、小谷清三郎・たよの二男として生まれました。仲治郎は、根本小学校を卒業すると、東京の佐野英語学校で1年間学んだ後、1890(明治23)年、当時の水産界の要求に即応した水産技術者養成をめざす大日本水産伝習所(現東京海洋大学)に入学し、金澤屋の仕事を手伝いしながら、水産の専門知識・技術を学んでいました。当時、水産伝習所の所長は、アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人工ふ化、缶詰製造法を日本に導入し、水産業振興に尽力していた関澤明清でした。関澤は後に豊津村に設立された日本水産会社が解散した際に、将来の水産界を考え農商務省を退官して会社を買い取り、館山町に移住し関沢水産製造所を設立しています。仲治郎の生き方に影響を与えた人物であったと思われます。

水産伝習所を卒業すると、20歳の仲治郎は七浦村千田の平野家の婿養子となっています。1897(明治30)年の1月、千田で大火があり平野宅は焼失してしまいます。その年12月、兄の渡米から3か月後、七浦村千田・平磯の3人の男海士(あま)たちとともに25歳で渡米しました。兄源之助やA.М.アレンとともにアワビ缶詰会社を創立し、アワビの販路開拓に力を尽くしました。アメリカ人の食嗜好に合うよう試行錯誤を重ねた末、アワビ缶詰やアワビステーキなどを紹介し、アワビを食べる習慣のなかったアメリカの食文化に革命をもたらしました。

日本人移民排斥の機運が高まってきたなか、1906(明治39)年に帰国し、妻の平野美わの実家がある七浦村千田に住みました。器械式潜水夫の養成と渡米のサポートをし、共同会社経営の兄源之助のもとに送り込みました。千倉や白浜の両地域を中心に、七浦村千田からだけでも21名とその家族らが渡米し、太平洋を挟んで、戦前まで南房総とモントレーの交流が続きました。

一方、七浦村村会議員、千田漁協組合長、安房郡水産会長、千葉県水産会議員、七浦小学校学務委員などの要職を歴任したほか、千田の神社の氏子総代、長性寺の檀家総代も務めました。水産界だけでなく、産業や文化、教育にいたるまで、安房地域の発展に広く関わったとされています。

2018(平成30)年末、仲治郎旧宅の襖から古文書が多く発見されました。古文書には、明治期の漁業全般から全国的にも著名な人物の名前が書かれています。また、旧宅には妹英子の夫で画家の倉田白羊(くらた・はくよう)が描いた襖絵も残されていました。倉田は館山の北条小学校や富崎小学校はじめ安房の児童自由画教育に尽力したほか、自由画教育の先駆者である山本鼎(やまもと・かなえ)に招かれて長野県上田市に移住し、日本農民美術研究所の副所長として活躍した人物でした。

 

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