青木繁テーマ研究者が講座
房日新聞 2012年7月21日
洋画家。青木繁(1882〜1991)の作品「海の幸」(重要文化財)について学ぶ、館山市中央公民会の第3回ふるさと講座が、あす22日午後1時半から、同市コミュニティセンターで開催される。一般が対象で、定員は150人。参加者を募っている。無料。
同市の渚の駅たてやま渚の博物館で開催の巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」の関連事業として開催する。講師は福岡大学人文学部教授の植野健造氏。植野氏は「海の幸」を収蔵する石橋美術館学芸員で25年間勤務。昨年は「没後100年 青木繁‐よみがえる神話と芸術展」を企画し、「青木繁《海の幸》」(中央公論美術出版)など、著書も多数。
テーマは「青木繁の生涯と芸術‐《海の幸》を中心に‐」青木は1882年(明治15年)福岡県久留米市に生まれ、画家を志して」上京。1904年(明治37)に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業すると、友人らとともに訪れた館山市の布良で、代表作となる作品「海の幸」を制作。
講座は海の幸を中心に、青木繁の生涯を紹介する。
問い合わせは、館山市中央公民館(23‐3111)へ。
神輿に女装「復活」館山布良崎神社
名画「海の幸」のモチーフ?
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夭折(ようせつ)した洋画家・青木繁の代表作「海の幸」=石橋美術館蔵=が描かれた館山市布良(めら)の祭礼で、神輿(みこし)の担ぎ手に女性の着物姿が復活する。「海の幸」は神輿を担ぐ姿がモチーフともいわれ話題を呼びそうだ。
青木繁(1882〜1911)は東京美術学校(現在の東京芸大)を卒業した1904年、同郷の画家・坂本繁二郎らと布良に写生旅行に訪れ、元船主の小谷家に滞在した。「海の幸」は坂本から聞いた大漁の様子がヒントだった。
昨年、東京のブリヂストン美術館の貝塚健・学芸員が「サメを担いで歩く男たちは神輿を担ぐ姿に似ている」と指摘、青木繁展の図録で、布良に近い安房神社の神輿がモチーフだったという説を発表した。
一方、館山市布良漁協の島田吉廣組合長は、「海の幸」の下絵では、担ぎ手に姉さんかぶりで長襦袢(ながじゅばん)、白粉をつけた人がおり、「布良崎神社に間違いない」と主張している。
格式が高い安房神社は白装束が決まりだが、布良崎神社の神輿は大きくて担ぎ手も多い。女性の着物を借りたり、白粉を付けたりも許されてきたという。「海の幸」には11人が描かれ、2人が白粉をつけている。
布良崎神社の神輿は世話人お間からは、着物姿を復活させようとの声が高まった。女物の着物や浴衣30着、白粉代わりのベビーパウダーも用意する。青木繁のみた100年前の光景が再現されるかもしれない。
布良崎神社の祭礼は20、21日。神輿は21日午後5時から布良崎地区を巡回する。(清水弟)
(朝日新聞2012年7月20日 )
館山市の青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会は、8月22日に青木が滞在した布良の小谷家住宅の公開見学を行なう。時間は午前10時から正午まで。青木は、1904(明治37)年に小谷家に滞在し、名画「海の幸」を生んだ。09年に市の文化財に指定されている。
同会ではこの後、8月5日と19日にも公開(いずれも午後1時から4時)を予定している。
(房日新聞2012.7.18)
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洋画家、青木繁(1882~1911)の作品「海の幸」(重要文化財)について学ぶ、館山市中央公民館の第3回ふるさと講座が、あす22日午後1時半から、同市コミュニティセンターで開催される。一般が対象で、定員は150人。参加者を募っている。無料。
同市の渚の駅たてやま渚の博物館で開催の巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」の関連事業として開催する。講師は、福岡大学人文学部教授の植野健造氏。植野氏は「海の幸」を所蔵する石橋美術館学芸員で25年間勤務。昨年は「没後100年青木繁展-よみがえる神話と芸術展」を企画し、「青木繁《海の幸》」(中央公論美術出版)など、著書も多数。
テーマは「青木繁の生涯と芸術―《海の幸》を中心に」。青木は、1882(明治15)年福岡県久留米市に生まれ、画家を志して上京。1904(明治37)年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業すると、友人らとともに訪れた館山市の布良で、代表作となる作品「海の幸」を制作。講座は「海の幸」を中心に、青木の生涯を紹介する。
問合せは、館山市中央公民館(0470-23-3111)へ。
(房日新聞2012.7.21)
神輿に女装「復活」布良崎神社
名画のモチーフ?
(朝日新聞2012.7.20)
(房日新聞2012.7.18)
館山市の青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会は、
8月22日に青木が滞在した布良の小谷家住宅の公開見学を行なう。
時間は午前10時から正午まで。
青木は、1904(明治37)年に小谷家に滞在し、名画「海の幸」を生んだ。
09年に市の文化財に指定されている。
同会ではこの後、8月5日と19日にも公開(いずれも午後1時から4時)を予定している。
青木繁《海の幸》への想い
館山美術会 顧問 船田正廣
信州上田生まれの私は、人生の半分以上を安房の地で美術の教鞭をとってきた。私にとって大学の大先輩である青木繁が、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した明治37年夏、布良という海岸で名画《海の幸》を描いたということは知っていたが、その漁村こそ私の住んでいる館山市内だということは随分長い間気づかなかった。近代西洋画として第一号の重要文化財となった《海の幸》は、私のみならず多くの美術家に影響を与えてきたといっても過言ではない。
素っ裸で隊列を組んで、大きなサメを担いで砂浜を行進するということは、実際に布良の漁師がしていたとは考えにくい。美術学校で、人体美学や美術解剖学を学んだばかりの青年青木繁が、布良の男らしい漁師と荒々しく担ぎゆかれる大魚を見て、人間の労働における身体美、裸で平等に躍動する人体の憧憬に感動したのではないだろうか。この衝撃的な体験と、学校での机上の学問を融合していったとも思われる。男たちの歩く先には大きな夢が満ちているし、目指す先は永遠にあるという確信に満ちた大ロマンを感ずる。
還暦を迎えて県立高校を退職し私立安房西高校の非常勤講師となったとき、私はあらためて《海の幸》とじっくり向き合う時間をもつことができた。私は彫刻家として、彼とはちがうが、彼と同等の衝撃的体験を共有することは出来ないだろうか…と。
そして感じたことは、青木繁は彫刻家以上に彫刻的な絵を描ける画家であるという結論だった。それなら、この絵から必ず彫刻が生まれると確信出来た。なるべく絵画《海の幸》に近い形で、原画と同寸大で彼の感動に迫ってみようと思い、粘土によるレリーフ(浮き彫り)に取りかかった。
1年、2年は制作に行き詰った。その度に、彼の描いた骨組みや筋肉表現に行きつけず頭が下がった。自分の才能も、もういくら頑張ってもこれ以上のものは出て来ないと感じた。3年目に入ったある日、彫塑のヘラを置いた。完成作品の撮影をし、写真の右下に写し込まれた2004.7.31の日付を見たとき、私は身震いがした。青木繁が布良に滞在し《海の幸》を描いた1904年夏から、ちょうど百年目の夏だったのである。私の『刻画・海の幸』はこうして誕生した。その後、この感動に共感してくださった安房西高校の理事長によりブロンズ鋳造され、同校に展示していただいている。
先ごろ布良崎神社神輿世話人である島田吉廣氏は、《海の幸》の構図は神輿の御浜下りから着想したものではないかと自説を披露された。小谷家に隣接している布良崎神社の祭礼は、当時8月1日に行なわれていたという。だったら、7月中旬から布良に滞在していた青木が、漁師たちの神輿が海に入り、また海から上がってくる様子に衝撃を受けたと考えてもおかしくない。さらに10日後には相浜で、安房神社神輿の御浜下りと続く。神話世界を具現化したいと願っていた青木繁にとって、恰好の素材であったに違いない。
8月27日に南総文化ホールで開かれる「青木繁《海の幸》フォーラム」が楽しみである。多くの館山市民、安房の市民にご来場いただき、一緒にこの感動を共有したいと願っている。
青木繁《海の幸》フォーラムへのお誘い
青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会 会長 嶋田博信
今年は、画家・青木繁の没後100年にあたり、春から福岡の石橋美術館・京都国立近代美術館に続き、現在、東京のブリヂストン美術館で、大回顧展が開催されています。重要文化財の《海の幸》が、明治37年に房州布良村で描かれたことから、美術界において布良は聖地といわれているそうです。『芸術新潮』7月号で60頁にわたる特集やNHK「日曜美術館」をはじめ、多くのメディアで特番が報道される中、28歳で亡くなった青木繁の人生で最も充実した時期として、必ず布良が紹介されています。
青木が布良から親友に宛てた4枚の絵手紙を見ると、この地を絶賛し、あふれるほどの魚の種類が列挙され、その感動が伝わってきます。その当時の布良は、たいへん栄えた漁港として賑わっていましたが、今では水産業の衰退に伴い、深刻なほど少子高齢化が進んでしまいました。このことを憂慮した私たち富崎地区(布良・相浜)の役員は、地域の誇りを子どもたちに伝えることを目的として、平成20年に本会を発足しました。
《海の幸》誕生の家とは、青木が滞在した「小谷家住宅」のことで、館山市有形文化財に指定されていますが、今なお当主が暮らす個人住宅であり、維持修理の負担が困難な状態です。また、《海の幸》記念碑は没後50年に、当時の田村利男市長や嶋田繁市議らが発起人となって、一流画家の皆さんが募金を出し合って建てられたものです。
現在、女子美術大学の名誉理事長・大村智先生を代表として美術関係者の皆様が、「小谷家住宅」の保存を目ざしてNPO法人青木繁「海の幸」会を発足し、修理費の募金活動をすすめられています。先の東日本大震災でも屋根瓦が一部ずれたのですが、支援を受けて緊急修理をすることができました。将来、募金による本格修理が完了したときには、未来の子どもたちにのこす館山遺産、「青木繁《海の幸》記念館(仮称)」として一般公開してもよいと、小谷家当主は考えておられます。
私たちの一番の希望は、小さな漁村の元気を取り戻すことです。富崎地区は、元禄地震や関東大震災で津波被害を受けており、今回の震災も他人事ではありません。日本を代表する画家と芸術作品の力を借りて、集落の絆と支え合う地域力を強めたいと願っています。
このたび、館山市教育委員会の策定により、文化庁の「文化遺産を活かした観光振興と地域活性化事業」に選定され、本会では「青木繁没後100年記念事業」を実施することになりました。第一弾として、8月27日2時より南総文化ホール小ホールにて、「青木繁《海の幸》フォーラム」を開催します。
第一部の美術講演では「布良という聖地〜《海の幸》が生まれた地」と題して、ブリヂストン美術館の貝塚健学芸員と、NPO法人青木繁「海の幸」会の吉岡友次郎事務局長にお話いただきます。第二部の井戸端会議では、青木のひ孫にあたる石橋鉄也さんをお迎えし、地元から小谷福哲さん、山口栄彦さん、島田吉廣さん、鈴木聰明さん、池田恵美子さんらが、青木繁《海の幸》に対する思いをそれぞれ語られます。参加費は500円、前売券は南総文化ホール・宮沢書店・松田屋書店で販売しています。また、翌28日には、青木繁ゆかりの地をめぐるウォーキングも企画しています。多くの皆様にご参加いただれば幸いです。
問合せは、事務局0470-22-8271・090-6479-3498まで。