多々羅義雄(たたらよしお)

1894(明治27)年、福岡県能古ノ島生まれ。

小学校時代から絵の好きな少年として知られ、やがて福岡出身で佐賀の中学校図画教師平島信に寄留、油彩画の手ほどきを受けました。 1910(明治43)年、平島の美術学校以来の友人であった青木繁に佐賀で出会い、洋画を学んだといいます。 それは、青木が亡くなる前年秋のことでした。

翌年16歳で上京し、太平洋画会研究所で満谷国四郎に師事。 文展入選、特選を経て、1922(大正11)年頃に《房州布良ヲ寫ス》-千葉市立美術館所蔵-を描いています。 やがて帝展、文展無鑑査となり、太平洋美術学校教授、太平洋画会代表、光陽会創立、同会長を経て、文部大臣奨励賞受賞。 1968(昭和43)年、74歳で死去しました。