山村暮鳥(ぼちょう)
群馬県群馬郡生まれの詩人・児童文学者。
貧困の少年期を過ごし、16歳で代用教員をしながら教会付属の英語夜学校に通いました。その後神学校に学び、伝道師として布教活動に励みます。室生犀星・萩原朔太郎らとともに文学運動を展開します。
結核になり、妻方の親戚を頼って妻と2人の娘とともに、1918(大正7)年12月から半年間、北条南町に住みました。療養滞在中、自己を自然に預ける超俗の精神に辿り着いたといいます。41歳死去。
友人への書簡に次のような記述があります。
「北条は肺病の巣です。よく柩や釣台にあひます。…苦痛はまだ自分をすてず、それによってますます神の愛を知り、人間として強くなるのを感じます。…北条は人気はいい、純です。けれど物価は東京標準、正に水戸以上です。…」
山村は館山居住時、やはり館山に住んでいた画家の青木茂と出会いました。もうひとりのアオキシゲル(青木茂)が、絵だけではなく童話が書きたいという希望を知り、雑誌『おとぎの世界』を紹介しました。これが契機となって青木茂は児童文学者となり、名作『三太物語』の誕生へとつながりました。