遠藤虚籟:平和祈願の錦綴織
● 綴錦織にこめられた平和の祈り
・遠藤虚籟(えんどうきょらい)
1890(明治23)〜1963(昭和38)
・和田秋野(わだあきの)
1908(明治41)〜2017(平成29)
山形県鶴岡生まれ。16歳で画家を志し、上京。苦学して、太平洋画会研究所で中村不折に師事し、デッサンを学ぶ。しかし生活苦で健康を害して、画家の道を断念。貧困と挫折のなか、信仰に出会い、「霊に導かれ、霊に順う」という順霊の旅に立つ。1922(大正11)年、綴錦織に出会い、32歳にして指導を仰ぐ。
関東大震災を契機として放浪生活をやめて安房北条へ定住し、本格的な作家活動に入る。高村光太郎が注目し、励ました。以後、入選を重ねる。1934(昭和9)年、和田秋野と出会い、虚籟のもとへ弟子入り。虚籟の手伝いのかたわら、自らの小作品も織り上げ、徐々に入賞を重ね名声が高まるなか、1940(昭和15)年、奢侈品等製造販売禁止令(贅沢禁止令)が出された。芸術保存の観点から特別に製作を許可された虚籟は、自問自答を重ねた末、国家や民族の利害を超えた全人類的な視野に立つ意識の改革が起きた。山川草木生きとし生ける全てを互いに認め尊ぶ、畏敬の気持ちが大切だと気づく。そこで、一切の戦争犠牲者の冥福と世界平和を祈願する綴錦織浄土曼荼羅を発心するが、戦局の悪化に伴い、郷里鶴岡へ疎開し、一時製作を断念。
1949(昭和24)年、鶴岡ユネスコ協力会を設立、初代会長となる。市民の浄財に支えられて、1950(昭和25)年3月31日、「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」が完成、虚籟60歳、秋野42歳であった。 翌年、仏教連合会と日本仏教鑽仰会を通じ、全日本仏教徒の総意として、NY国連本部に贈呈された。
1952(昭和27)年、館山市民に迎えられて再度来房、八幡に工房を開く。1958(昭和33)年、虚籟は館山市無形文化財第一号に指定され、館山市八幡区では名誉区民を贈った。1963(昭和38)年死去。
秋野も遅れて、館山市無形文化財の指定、千葉県無形文化財保持者となり、さらに国の地方文化振興功労者として表彰。2017(平成27)年、館山市において108歳で亡くなっている。
*『海とともに生きるまち』より抜粋