日本重要水産動植物之図
青木繁「海の幸」記念館・小谷家住宅(館山市指定有形文化財)には、3点のカラー魚介図が掲示されています。これは明治21年に農商務省が制作し、パリ万博に出品された「日本重要水産動植物之図」であり、水産伝習所長・関沢明清から小谷喜録に寄贈されたものです。関沢は日本水産業の祖といわれるパイオニアです。書状には次のように記されています。
「拝啓残暑之候先以愈御清適慶賀此事ニ候陳者過般中本所生徒御地出張中ハ御多忙之中特ニ漁具其他之説明ヲ煩シ生徒ニ於テモ満足致居候依テ聊謝意ヲ表スル為ノ重要水産動植物図差進候間御受納相成度候右謝辞申延度如茲御坐候 敬具
明治二三年九月十日 水産伝習所長 関澤明清 小谷喜録殿
本文動植物図は通運便ヲ以テ差出候也」
関沢明清は、ウィーン、フィラデルフィアの万博で欧米の水産業に驚愕し、国策として水産業発展のための尽力をするとともに、水産教育の重要性を訴えました。明治22(1889)年に水産伝習所を開設して自ら初代所長となりました。
明治25(1892)年に自ら館山に捕鯨・遠洋漁業会社を設立、明治30(1897)年に関澤は53歳で亡くなりましたが、その年、水産伝習所は官制の水産講習所となり、明治34(1901)年には館山実習場が開かれ、戦後の東京水産大学、東京海洋大学になっていきます。
明治23(1890)年の白浜実習で、太海(鴨川市)・根本(南房総市)と布良(館山市)を訪れ、水産実習をおこないました。指導を受けて世話になった布良の小谷喜録に、お礼として「日本重要水産動植物之図」が贈られました。
この実習には、引率教員として内村鑑三が同行しており、布良の神田吉右衛門と出会い、人生の転機を迎えたことが『内村鑑三全集」に「余が聖書研究に従事するに至りし由来」として記されています。
【参考図書】
『関沢明清 若き加賀藩士、夜明けの海へ』和田頴太著(北国新聞社)