青木繁が描いた《海の幸》

■ 青木 繁 1882(明治15)〜1911(明治44)

福岡県久留米生まれ。1904(明治37)年夏、東京美術学校を卒業した青木は、画友の森田恒友・坂本繁次郎・福田たねとともに布良を訪れ、漁家小谷宅に2ヶ月近く滞在し、多くの作品を描きました。エネルギッシュな漁師たちの姿に鼓舞され、描かれた代表作品は、神話の「海幸彦山幸彦」にちなんで《海の幸》と題され、明治画壇で高い評価を得ました。

この地で結ばれ懐妊したたねを伴い、翌年には焦心に駆られて再度この地を訪れ、伊戸の円光寺に投宿しています。神話に傾倒していた青木は『古事記』を読みふけり、安房神社をはじめとするこの地の信仰深さにふれて再起し、円光寺では板戸に力強い焼き絵を描いたといわれているます、現在残っていないのが残念です。

誕生した男児は《海の幸》にちなんで幸彦と名づけられましたが、入籍をしないまま2歳で別れ、故郷に戻った青木は放浪生活の末、29歳で死去しました。成人した遺子は『笛吹童子』で有名な音楽家・福田蘭堂として活躍しています。また、蘭堂の子・石橋エータローはクレージーキャッツとして一世風靡した後、料理研究家として活躍しました。芸術家であり海を愛する血筋は三代にわたって流れていたようです。

青木繁「海の幸」記念館を保存する会

※青木繁が滞在し《海の幸》を描いた漁村(館山市富崎地区)については、
⇒⇒「新たな公」=3つの〝あ〟のまちづくりをご参照ください。

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