日中交流

●遣唐使船で中国に運ばれた「望陀布」

-房総は(「総」は良質の「麻」)-麻織物の産地であった-

安房は、奈良時代から明治時代の初めまで安房国(あわのくに)と呼ばれ、「安房郡」「平群郡」「朝夷郡」「長狭郡」の4つの郡に分かれ、館山市域は平久里川を境に、北側の那古・船形地区が「平群郡」、南側が「安房郡」になっていた。なお、「安房」の文字は、『古事記』で「淡」、『国造本紀』では「阿波」、『日本書紀』で「安房」と記載されている。

古代の安房には、二つの神話があり、まず『高橋氏文』では、大和朝廷は日本平定にヤマトタケルを遠征させ、その父であった景行天皇は関東の豪族を従えることができた。

景行天皇が関東へやってきた際、安房の豪族であった「イワカノムツカリ」は他の関東の豪族たちとともに、「淡(あわ)の水門(みなと)」において、アワビの料理を作ってもてなしたと記載されている。これは関東の豪族たちが天皇に服属した儀式を表しているのではないかといわれる。この「淡の水門」は「安房の湊」で、平久里川の河口のあたりではないかと推定されている。当時大和朝廷にとって、東日本方面に海路でいくなると、関東の入口にある安房は、軍事的戦略的に重要な場所だったかもしれない。

もう一つの書物『古語拾遺(こごしゅうい)』は、朝廷の祭祀を担当していた忌部(いんべ)氏の神話である。一族の指導者天富命(あめのとみのみこと)は、宮中に神殿を建て、木綿や麻などの織物や鏡・玉などの祭りの道具は、自分たちで作っていた。玉は出雲国で、布は四国の阿波の国で作っていた。その後天富命は、布を織るための植物を栽培するに都合のよい土地を求めて、四国の忌部一族を率いて海路を東に向かい、房総半島の南端に上陸したという。そして、阿波国で栽培していた穀物や「麻」を植えると良く育ったので、古代には「麻(あさ)」のことを「総(ふさ)」といっていたことから、房総半島を「総国(ふさのくに)」と名づけたという。後に、総国は二つに分かれ、都に近い半島南部を「上総国(かずさのくに」、北部を「下総国(しもふさのくに)」とした。

阿波の忌部一氏は移住した本拠地を、故郷にちなんで「安房」と名づけ、天富命はそこに先祖の天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祭る神社を建てるが、それが安房神社の始まりと伝承されている。また、天太玉命の妃は、洲宮神社と洲崎神社に祭られている。

現在、安房神社周辺を「神戸(かんべ)」というが、神戸は神に仕える家のことで安房神社の神に仕える人々の家があった地域とか。また「神余(かなまり)」は神戸の余りということで、神戸の人口が増えたため新しく開拓して住んだ場所という意味であると伝えられている。

現在のJR久留里線馬来田駅周辺は、かって「望陀郡(もうだぐん)」と呼ばれ、遣唐使船で大和朝廷に「望陀布」を献上した地です、当時地名をつけた品物は全国的にも少ないようで、素材の他、技術的にも優れていた思われる。

遣唐使献上品であった「望陀布(まぐだのぬの)」とは

777(宝亀8)年6月に出発し、778年10月〜11月に帰国した遣唐使の小野石根(おののいわね)らは、長安に着いて朝貢品を献上したとき、それらが皇帝代宗に気に入られたと報告している。ただ、持参した具体的な品は不明で、なにが気に入られたか不明であるが、ただ「国信及び別貢等の物を奉る」とあり、「国信」は定例の朝貢品で、「別貢」はそれ以外のものと考えられる。

そこで『延喜式』(大蔵省、賜蕃客例条)に朝貢品のリスト(唐・新羅・渤海などの蕃国王が来日時に与える品を定める形)をみると、


水織あしぎぬ・・・・「美濃あしぎぬ・細あしぎぬ・黄あしぎぬ」(平織りの絹)
黄糸・・・・(絹)
細屯綿(ほそつみのわた)・・・・上質の屯綿(厚手の真綿)「別送」としての記載は綵帛(さいはく) 綵-別の読み方は「あしぎぬ」・帛-「きぬ」
畳綿・屯綿・・・・・・・平たく畳状にした綿(真綿、絹綿) 畳綿は富山の特産品。
紵布(ちょふ)
望陀布(まぐだのぬの)
木綿(ゆふ)
出火水精(しゅつかすいしょう)
瑪瑙(めのう)
出水鉄
海石榴油(つばきあぶら)
甘葛汁(あまずらのしる)
金漆(こしあぶら)

と記載されている。これを見ると朝貢品の大部分が絹製品であったようだ。もし、献上品を代宗が気にいったというとのなると、当時の唐にとって絹が貴重品であったので、その献上品の絹の質が良かったかもしれない。
≪資料「遣唐使に見られる絹製品」東野治之著(『遣唐使船』より)≫

●シルクロードのロマンを伝える
那古寺『繍字法華経普門品(しゅうじほけきょうふもんぼん)』

館山市那古にある真言宗那古寺には、中国からもたらされた貴重な経典がある。この経典は『繍字法華経普門品』と呼ばれ、県の指定文化財である。この法華経普門品は、中国で3世紀ごろからサンスクリット(梵字)から漢字訳にされたもので、当時仏典を漢訳する僧を三蔵法師といった。なかでも玄奘(げんじょう)三蔵は、はるばるシルクロードを旅して、インドから仏典を求めた人物として有名である。

那古寺にある経典『繍字法華経普門品』は、白い絹布に藍色の絹糸を使って縫いとられ、仏の文字は一字一句が金糸によって繍字してある珍しいものである。この経文は全体の長さが386cmの巻物であり、はじめの見返し部分に普賢(ふげん)菩薩に向かって、法華経の教えを説いている釈迦如来と、甲冑に身を固めた両脇侍(じ)の4人の仏像が美しい彩色で描かれている。

そのあとに繍字経文が続き、千手観音菩薩の彩色画が描かれた巻末に由来を伝える奥書きが付いている。そこには、中国の元朝の1361(至正21)年に、平江州(現在の江蘇省呉県の嘉定)に住んでいる姚氏一族の二人の娘が中心になって、人々から浄財を募って絹を求め、張氏や唐氏などたくさんの女達が力を合わせ、この経典を繍字したものであると記載してある。

なお奥書には、1702(元禄15)年に京都の智積院僧侶によって、那古寺に寄納されたことや、現在の表装は明治34年に、当時の千葉県知事と船形の正木貞蔵の寄付によって行われたことが書かれている。