安房に来た済州海女

*海女たちの韓国人墓地

明治期より済州島の海女が多く来日し、アワビ漁に従事していた。安房にも暮らしていた彼らは、戦後、鴨川市の長興院を墓地として埋葬した。儒教を国教とする韓国では、参詣の際には数十にのぼる墓碑をすべて供養するという。済州島大学校の趙誠倫教授は、日本国内での韓国人墓地は貴重な事例という。今後の共同研究が期待される。

●朝鮮の済州島の海女●

朝鮮では海女、つまり裸潜漁業者を「チャムス」「チャムニョ」「ヘニョ」と呼んでいる。古来より朝鮮の済州島ではチャムスによる漁業が盛んであった。日本の海女技術は、済州島から伝わって来たともいわれている。明治期より日本の潜水漁業者が豊かな磯根漁場であった済州島に進出し、トラブルも起こしている。記録によると、1915年に日本人ヨード製造業者が済州島のカジメを買い占めたとあるが、前述したように28年には【朝鮮沃度(株)】が済州島に設立されている。

その間、20年には済州島海女組合が創設されたが、総督府の御用組合であったので、日本商人のための組織であった。そのなかで30年には、済州島よりの出稼ぎの海女3860人が、海女組合に抗議する漁労作業拒否のストライキ闘争をしたといわれる。さらに32年1月には、いわゆる「済州島海女闘争」があり、大小集会やデモが238回、延べ16036人チャムスが参加し、労働条件を若干改善したという。

当時済州島からの出稼ぎチャムスは5078人(海女組合員総数8862人の約57%)にのぼっており、朝鮮本土へは3478人、そして日本へ1600人(当時の日本の海女は12913人)いったという。日本での出稼ぎ地域をみると東京(三宅島・大島)・千葉・神奈川・静岡・三重・徳島・高知・鹿児島・長崎であった。1939年「国民徴用令」は官斡旋とか一般徴用という名のもとで、多くの朝鮮人への強制連行おこなわれるが、海女関係も例外でなかった。ところで朝鮮総督府は済州島開発と称して火薬原料としての「カジメ」切りの義務化や供出を命じている。またイワシの巾着網漁業が奨励され、イワシからの油もグリセリンという軍需物資に化けた。

日本に来たチャムスの金貞仁さんは徴用でカジメ切りをされたという。「館山に館山航空隊っていうのがあったの。そこで上の人から命令があって、組合関係の人が来て、カジメを切りに来れば炭坑に徴用に行かなくもいい」といわれた。1944年ころカジメの需要が急増するなかで、働き盛りの海士たちを戦場に取られた房総の漁村では、労働力として出稼ぎに来ていたチャムスたちが動員された。一つの浜を取り尽くすと隣の浜に移動するというように、「漁業組合関係者の監視のもとにとれる限りとった」という。特に金谷・保田・勝山一帯はもともと海女がいなかったのでチャムスが動員された。

1938年頃から勝浦にも毎年10人前後のチャムスたちが出稼ぎに来ていた。その時引率者のひとりの文万国さんはチャムスについて「日本に来たのは生活のため。来ればそれだけ食いぶちが減る。あの時は男であろうが女であろうが若いもんはみんな軍需工場へ引っ張り出すとか、朝鮮の慰安婦というやつを戦場送るでしょ。若い娘たちはそういうところから逃れようとして来ていた」という。

1943年に日本に出稼ぎに来た金栄児さんは、和田浦でアワビ・テングサなどを採っていたが、44年からはカジメ切りを強制された。食糧の配給が少ないので、ひもじさを補うためアワビやサザエを採ろうにも、漁業会からはカジメ切りの期間はアワビ採りは一切禁止され、採った場合厳しく処置された。軍需物資としてのカジメの増産に毎日おわれていたのである。

 

<参考文献>
・『海を渡った朝鮮人海女—房総のチャムスを訪ねて』
…(金栄、梁澄子 著)

ハンギョレ新聞(2010.9.24付)
[このひと]日本に’潜り’教えた済州海女 忘れないで
…(パク・コンチ氏=新井健治=朴基満の息子)

 

MBCテレビ(2017.12.17.放送)
「玄界灘を越えた済州の女たち」〜千葉和田浦の済州海女

 

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