2002日韓歴史交流シンポジウム
[発表要旨]
浄土宗大巖院「四面石塔」の謎をさぐる
千葉県立長狭高等学校 愛沢伸雄
1.はじめに
館山市の浄土宗寺院大巖院にある石塔は、江戸時代初期の「元和十年」(1624年)との年号が刻まれ、四面には梵字(サンスクリット)、篆字、和風漢字、ハングルの文字によって、それぞれ「南無阿弥陀仏」と刻字された日本でも大変めずらしい六字名号石塔である。とくに阿弥陀信仰関係のなかで「四面石塔」と呼ばれ、その一面にハングルが刻字された貴重な石造物である。
この石塔で最も注目されることは、東側の石面に現在のハングル字形と違った古い字形のハングル(以下、「初期ハングル」とする)が刻字されているという事実である。なぜ房総半島南端の安房という地域に、初期ハングルが刻字されている「四面石塔」が存在するのであろうか。この石塔には大巖院の創健者の雄誉霊巖上人(以下、雄誉とする)の名と花押が刻まれている。石塔建立に関わる一人の浄土宗僧侶を通して、16世紀末から17世紀初頭の東アジア世界の動きのなかで、日本や朝鮮に関わる大きな出来事が関係していると推測している。
2.大巖院「四面石塔」建立をみる
石塔の四面のひとつに、初期ハングル字形で「南無阿弥陀仏」と刻字されている意味は何か。結論的に言えば、秀吉の「朝鮮侵略」に関わる何らかのことが「四面石塔」建立の理由ではないかと、私は推定している。まず、石塔建立の1624年が、1592年の文禄の役(丁酉倭乱)から「三十三回忌」供養の年であることを指摘しておきたい。なお、この年には「寛永元年度朝鮮回答兼刷還使」の来日があり、朝鮮国外交団に合わせて幕府から雄誉が朝鮮人刷還に関わる件を秘密裏に依頼された可能性がある。その結果、帰還を許された被虜人の「山村茂兵」夫妻が、「逆修」の儀式のお礼という形で水向付きの「四面石塔」を寄進したとの大胆な想像は許されないであろうか。
また、雄誉の動きから1624年をみると、この年に江戸日本橋近くを埋め立てて霊巖島を造成し、その地に道本山霊巖寺という大規模な檀林(僧侶養成)を創建している。安房の地においても江戸霊巖寺の創建にあわせるかのように、雄誉の弟子たちによって寺院が創それていることは何を意味しているのか。さらに、雄誉と朝鲜人僧侶やハングル刻字との関係では、大巌寺の三世住職であった雄誉が全国に布教活動するなかで様々な僧侶のネットワークをつくっていったことは間違いなく、家康と深い関係にあった檀林大巖寺では、朝鮮仏教の経典であるハングル版「阿弥陀経」と触れたり、雄誉の手元にあってもおかしはない。雄誉の浄土宗思想の原点には、新羅時代の元暁や中国唐時代の善導の念仏解釈があることは石塔の讃偈(経文)からも読みとれる。
こうしたさまざまな推定から、仏教的視点から東アジア世界でも、とりわけ日本と朝鮮の間の
「善隣友好と平和」を強く願った石塔が建立されたのでないかと推測した。
なお、富津市竹岡の浄土宗寺院松翁院には、「寛文十年」(1670年)に建立されたと思われる同じ形式のハングル刻字の「四面石塔」が存在する。しかし、全体的には粗雑な刻字であるうえに、なかでも讃偈の配列形式に大きな違いがある点を考えると、現在の時点では、大巌院の「四面石塔」を似せた可能性が大きい。
3.ハングル刻字「四面石塔」考察の糸口
初期ハングルが刻字されているといっても、石塔の四面に刻まれた文字以外は、全く関係史料がないので、今のところ建立の経緯が推定の域をでない。ただ、建立期の時代状況や四面にある讃偈など刻字されたものを「四面石塔」考察の糸口にしてみたい。
北面の梵字「南無阿弥陀仏」の右側に刻字されている「寄進水向施主山村茂兵建誉超西信士栄寿信女為之逆修」や、左側の「干時元和十年三月十四日房州山下大網村大巖院檀蓮社雄誉(花押刻字)」の刻字に注目すると、刻まれている六字名号や讃偈から建立に関わる理念の推定が可能である。なかでも石塔建立に関わると思われる花押が刻まれる雄誉に関わる史料は、浄土宗関係文書のなかに確認されており、石塔建立の意味を知る重要な手がかりが得られると判断した。
まず、石塔に刻まれている中国唐時代の善導大師撰の讃偈「門門不同八万四 為滅無明果業因利剣即時弥陀号 一声称念罪皆除」の内容をみると「いかに法門が多いとしても人間の果業を明
らかにさせることが難しいので、それを克服しようとすれば、ただちに『南無阿弥陀仏』を一声唱えれば罪みな除かれる」という意味である。僧侶が檀家や信者に対しておこなう伝法『伝授抄』「亡魂往来之大事」の項では、怨霊がくるという人や死んだものの霊をみる人の心の苦しみをやわらげる偈文とされるので、今も救われない亡魂を供養し鎮魂しようという意に解釈した。
そこで推測されるのが秀吉の「朝鮮侵略」によって亡くなった人々や、拉致されて亡くなった朝鮮人たちの亡魂が今だに鎮魂されていないと憂えていたのが石塔に名が刻まれている寄進者「山村茂兵」夫妻であった。当時高名な雄誉に相談して「逆修」の儀式をおこない、夫婦で戒名をもらったことで水向け付の石塔を寄進した。その際、秀吉の「朝鮮侵略」で犠牲になったり、拉致されて異国の地で亡くなった朝鮮人たちのなかでまだ供養されていない多くの怨霊を鎮魂するために、「三十三回忌」の法要をしたと想像したい。
それではなぜ「四面石塔」の東面にハングル刻字を求めたのか。「山村」夫妻が拉致されてきた朝鮮人であったと推測して「逆修」の儀式と「四面石塔」建立とが、元和十(1624)年であった理由を考えてみたい。この1624年に来日した「寛永元年度回答兼刷還使」外交団は、朝鮮から拉致してきた人々の刷還を幕府に要求していたが、帰国を希望していた「山村」夫妻は雄誉の尽力もあり、幕府から朝鮮外交団との帰還の特別許可が下されたのではないか。それは「逆修」の儀式や「三十三回忌」法要のきっかけとなり、そして「四面石塔」建立の理由となったのではないか。それらのことは飛躍した見方であろうか。
また、「善隣友好と平和」という特別な思いにつながる「三十三回忌」法要を末永く人々の記憶に残したいと願った朝鮮人「山村」夫妻の気持ちを察した雄誉は、石塔のなかに四種字形による「南無阿弥陀仏」と刻字することで、祈念的な浄土世界の平和理念を埋め込んだのではないか。そのなかでハングル字形の刻字には、ハングル仏典として雄誉の手元にあったかもしれない『仏説阿弥陀経諺解』(1464年刊行・1558年双渓寺木版本1卷復刻版)を使用したと思われるのである。
ところで「山村茂兵」像を別の視点から考察してみる。まず、石塔は安山岩質の伊豆石を使った大変貴重なもので、江戸城の築城や幕府の許可した建築事業以外は、一般的に使用できなかった石材である。高さ2メートルと超える伊豆石を使用した水向け付き石塔には、雄誉の花押や誉号のついた戒名、また雄誉から「逆修」の儀式を受けたことが刻まれているので、朝鮮人と「山村茂兵」は、武士扱いを受けた石材を扱う高級技術者であったか、もしくは雄誉と寺院建設事業で何らかの深い関係をもった人物であったかもしれない。それを裏付ける出来事のひとつが、石塔建立の1624年に、雄誉は幕府の許可を得て江戸日本橋近くの葦原三万坪を埋め立てて霊巖島を建設し、その造成地に関東十八檀林のひとつとなった壮大な霊巖島を創建である。江戸初期におこなわれた埋め立て土地造成と檀林寺院建設という大事業は、幕府からの強い要望であるだけでなく、直接的な財政的支援があってはじめて可能であった。このなかで「山村茂兵」なる朝鮮人は石材を扱う高級技術者として、建設事業に密接に関わっていたのではないかと推測する。
このように関係史料もなく推測し謎だらけの「四面石塔」ではあるが、製作された時代背景やそこに関わる人物の生涯などを検討することで、「善隣友好と平和」と願う石塔ではないかと推測してきた。このなかで激動の時代に生きていた雄誉霊巖上人は、南房総から日本、朝鮮、そして東アジア世界のなかでとさまざまな人的交流を繰り広げながら、
「善隣友好と平和」の行動をとって、多くの江戸初期の民衆に支持されていた僧侶と想像できるのである。
4.雄誉霊巖上人の生涯をみる
雄誉は、若くして千葉(生実)大巖寺の住職となり、その後全国の浄土宗の布教や館山大巖院や江戸霊巖寺の開山に関わり、晩年には浄土宗本山の京都知恩院の第32世住職になった人物である。なかでも徳川家康や秀忠、家光と直接的な接触をしながら、幕府の宗教政策上において重要な役割を果たした僧侶と考えられるが、その割にはあまり知られていない。一説に三千人の弟子がいたとされ、多くの民衆からみると雄誉自身が信仰の対象になったようにも思われる。後に弟子たちによって雄誉上人伝が書かれ、さまざまな伝承がつくられていった。今でも少なくない数の雄誉自身が記したという名号や、一枚起請文が残っており、近年館山市立博物館では特別企画として「雄誉霊巖上人」展を開催した際に、それらが展示された。雄誉霊巖上人の生涯を簡単に紹介したい。
1544年 今川氏一族である沼津氏勝の三男として駿河国沼津(静岡県沼津市)出生する
1559年 下総国生実(千葉県千葉市)の浄土宗大巖寺(住職道誉貞把上人)に入門する
1575年 道誉上人より浄土宗の教義を伝授する
1588年 大巖寺3世の住職となる。大巖寺は徳川家康の関東入国時より祈願寺であり、檀林とよばれる僧侶養成のための重要な学問所であった。
1590年 大巖寺の住職やめ、修行のため奈良に旅立つ。奈良に霊巖寺を創建する(ここを拠点に
3年間浄土宗の布教に努めているが、秀吉の「朝鮮侵略」で拉致されてきた朝鮮人たちと接触した可能性が高い)
1593年 徳川家康から再び大巖院住職にと説得され、関東に戻る
1598年 京都伏見城にて豊臣秀吉が死去する(家康や前田利家らは朝鮮からの撤退の指示
する)
1600年 家康は小西行長らに朝鮮との講和を命じ、その際に捕虜160名を送還する。(「増上寺史料集」によると、この頃雄誉上人は増上寺における徳川家の法事の席で論争となり、結局浄土宗の教義を傷つけたという大罪で大巖寺から追放されその後に安房国大網に隠れ住み小さな寺をつくったという)
1603年 館山の大網村に大巖院を創建する(安房国主里見義康の寄進による。正式名は仏法山大網寺大巖院といい、京都知恩院の末寺として僧侶養成所も併設された)
1607年 雄誉は守永寺をはじめ、房総の各地に多数の寺院を創建する(この年5月に第1回の慶長度朝鮮回答兼刷還使467名が来日し、1418名の朝鮮人被虜人を連れて帰国する)
1609年 安房国主里見忠義が帰依し、大巖院に42石の朱印が与えられる。上総国佐貫城主の内
藤政長から善昌寺住職にと懇願され、大嚴院は弟子の霊誉にまかせ安房を離れる
1614年 里見忠義が伯者倉吉(鳥取県倉吉)に改易される。雄誉上人は法然の足跡を参拝する西
国行脚にむけて旅立つ(各地で寺院を創建し、再建している頃、第2回の元和三年度朝鮮回答兼刷還使が来日し、雄誉が接触している可能性が高い。西国行脚の途中では、伯耆国に改易された里見忠義を訪ねている)
1619年 雄誉、西国行脚を終え上総国佐貫に到着する(西国行脚では多くの弟子を養成し、西日本各地に30余寺の創建や再興に関わり、庶民のなかに浄土宗布教を強力にすすめた)
1621年 江戸茅場町に草庵をつくっていたが、徳川水軍の長である向井忠勝から沼地をもらい埋め立て地を造成し、浄土宗の檀林として江戸霊巌寺建設をはじめる
1624年 大巖院において、山村茂兵夫妻が逆修のための石塔、つまり「元和十年三月十四日」と刻字した「四面石塔」を建立する(この年12月に第3回寛永元年度朝鮮回答兼刷還使の来日があり、江戸霊巖寺が朝鮮回答兼刷還使に関わった可能性がある)
1629年 霊巖寺の諸堂が完成し、佐貫の勝隆寺から本尊を移す。雄誉上人は幕府より浄土宗総本山である知恩院の第32世の住職に任命される
1633年 知恩院が大火となり、徳川家光より再建の命を受ける(大梵鐘鋳造発願をはじめ、門末寺院への勧進帳と募財をすすめる)
1636年 知恩院の大梵鐘が完成する(この年第4回寛永十三年度朝鮮通信使が来日する。のちの天和三(1683)年に雄誉の弟子である源誉霊碩が著した『霊巖和尚伝記』(館山市立博物館蔵)によると、朝鮮通信使の上官が日光参拝の帰りに大巖寺を訪れたとの記載がある)
1641年 知恩院の諸堂が完成し、その落慶法要が営まれた後に、説法のために江戸に戻った88歳の雄誉上人は江戸の霊巖寺で死去する