楽水会パンレット*快鷹丸

案内チラシ

◎快鷹丸記念碑
1907年9月9日、水産講習所実習船快鷹丸が、朝鮮半島東岸迎日湾近くの海岸で、台風により遭難した海難がありました。当時の水産講習所関係者及び各界有志により、遭難者を慰霊し史実を後世に伝え続けるために現場を望む陸岸に記念碑が建立されました。

海難発生から約1世紀を経た現在、記念碑は慰霊の気持ちを抱え、日本の水産業及び海洋開発の発展初期に果たした実績を顕示すると共に、日韓友好の歴史を秘めて往時の姿を残しています。

この資料は、日本社会が近代化を目指していた黎明期に発生した海難の事実及び関係する韓国住民に対する感謝の念を確実に伝承し、日韓両国民の友好親善に一層寄与することを目的に作成しました。
2005年9月 社団法人楽水会

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■快鷹丸(KAIYO-MARU)
・農商務省(現在の農林水産省)水産講習所初代実習船
・木造、2本マストスクーナー型帆船
・137.66トン、長さ28.85メートル、幅7.75メートル
・1901年4月20日進水、同年8月竣工、石川島造船所(東京)建造
明治時代後半期の水産業は、遠洋漁業奨励法その他の施策が実効をあげるようになってきましたが、業界規模は小さく、漁船の近代化、西洋式構造の導入等も十分普及するには至らない状態でした。

この時期に快鷹丸は、最新の技術及び研究成果として駆使した新鋭の構造及び設備を備える我が国初の本格的実習調査船として建造され、水産講習所の実習教育の他に漁具・漁法の開発改良、漁場調査及び海洋観測等に関する研究を行い、結果を内外に発表すると共に漁業実務者の現場研修を担当する等、日本水産業の発展に大きく貢献しました。

就航後は母校所在地東京を基地に房総半島沿岸、伊豆諸島近海、朝鮮海峡から沖縄海域、さらに小笠原諸島、マーシャル群島、オホーツク海へと航跡を伸ばして、教育実習と共に各種の試験操業、調査観測を行いました。また、当時遠洋海域における遭難船の捜索、救助の体制が不備であったこともあって、優れた対航性と機動力を発揮して行方不明船の探索にも従事しました。

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◎快鷹丸の遭難と記念碑の建立・引き倒し
1907年7月7日、教官2人に引率された実習生21人が乗組員14人と共に乗船した快鷹丸は東京を出帆、館山及び下関を経由して釜山に寄港後、サバ巾着網実習のため8月30日迎日湾に到着しました。まもなく来襲した台風に総力をあげて対応しましたが、9月9日操船不能になって座礁大破し、死者4人(教官1、実習生3)を含む負傷者多数を生じて船体は放棄されました。

陸上に脱出した遭難者は地元住民の救護を受けた後、9月12日来援した日本軍巡洋艦笠置に収容され、釜山経由で帰国しました。

快鷹丸遭難の直後、現地海岸に木製の記念碑が建てられましたが、老朽化したため1926年遭難体験者が発起人になり、社団法人楽水会が後援して花崗岩の記念碑が建立され、同年11月28日建碑式が挙行されました。秋風嶺産の石材を加工した新しい記念碑は高さ3.33m、幅49cmで、高さ75,8cmの台座に据えられ、地元住民金斗植氏の好意で永久寄付された土地6.6㎡の敷地に設置されました。

1945年、第二次世界大戦の終結直後、長年にわたる日本の植民地支配に対する地元住民の感情から記念碑は引き倒されました。このとき破砕されそうになったところ、地元の古老が記念碑は日本の政策とはまったく関係がない遭難した実習生達を慰霊する記念碑であることを力説して押しとどめたと記録されています。

破壊を免れた記念碑は、長く畑の一隅に土泥に埋まった状態で放置され、地元の関心はなくなり、また、戦後の復興に忙殺されていた楽水会、水産講習所も忘れてはいないにしても具体的措置を講じる余裕はありませんでした。

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◎記念碑の再建
世の中が平和な時期になった頃、韓国史学会地方史研究委員であり浦項迎日郡文化財保存委員長の朴一天氏が、古蹟及び文化財調査のため九龍浦邑地区に出張した際、九萬洞部落の古老から日本船遭難記念碑の話を聞き調査した結果、土中に埋没されていた記念碑を発見しました。朴氏は一見した状態から記念碑の扱いを検討し、ほどなく墓参帰郷した幼な友達の韓永出氏(当時島原市在住、長崎県居留民団副団長)に相談したところ、韓氏は19歳で渡日してから種々苦労もしたが、現在の自分があるのは日本人のお陰でもあるので、恩返しの意味で再建したいとの意向で朴氏と意見が一致しました。

韓氏は自費で再建したい意向でしたが、韓国官庁筋の反対が心配でした。これに対して朴氏は、大韓民国は自由民主主義の社会であり、個人が私財を投じて記念碑を復元することに官庁が反対するはずないと説得して具体的準備が始まりました。再建計画を地元関係者に説明したところ強烈な拒否反応があり、とても実現はできそうにもない状態でしたが、両氏の粘り強い説得、辛酸を嘗める努力を繰り返した結果、関係者の納得が取り付けられました。当初強硬に反対した地元住民は、合意してからは土地の提供や工事に協力する等積極的に再建事業を支援し、1971年12月二十有余年の悲劇的な空白時期を経て、記念碑が再び迎日湾頭に往年の姿を現すことができました。

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◎史実の教訓
日本が明治維新を経て近代国家を目指していた時期、日清・日露戦争以後の政策として朝鮮半島を重要拠点に選択したことは多くの資料に記録されています。この時代には日本からの移住、産業進出が活発に行われ、1905年の統監府設置に続き、1910年に日韓併合条約が締結され日本の支配が全域に拡大されました。

快鷹丸が迎日湾沖に停泊した当時、主権国家であった大韓帝国の領海を航行するにあたりとられた手続きの詳細は定かではありませんが、日本の沿岸海域と同じ感覚で行動していたと思われます。快鷹丸を望見し驚いた地元民が韓国軍に通報して部隊が派遣されたときの記録によれば、本船は漁業実習が目的であり武器はもっていない、地元住民には迷惑をかけない、天候が回復すれば即刻退去する等の説明で納得されています。遭難を目撃した地元住民は救護しようにも狂乱する風波に妨げられ、ダッシュtう上陸した生存者を介護支援する以外に方法がありませんでした。現地にも在留日本人はなく言葉が通じないうえ通信手段も不便な状態であっても、海難救護は沿岸住民にとって理屈抜きの自然な行為であることは今も昔も変りありません。

日本の支配的施策い対する韓国民の反発、軋轢が激化した事実は各種の資料に示されているとおりであり、1945年大戦の終結期には長年にわたった鬱憤が一挙に噴出した一環として記念碑が対象とされた心情は理解できるでしょう。表面は沈静化しても長年の被圧迫感情が残っている時期に、記念碑の再建を決断し地元民の拒絶感情を粘り強く説得して実現した朴一天及び韓永出両氏並びに了承してからは住民の総意として再建に協力し、誠意をもって保護することとした地元住民の厚意と恩恵は楽水会関係者のみならず、日本社会として感謝し長く伝承しなければならない史実です。また、韓国には祖先上長を敬う儒教思想が普及している事例でようが、同時に往年の日本植民地施策がどれほど多民族の主権を侵害し、怨嗟を招いたかを反省し記憶しなければならない事実といえるでしょう。

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◎記念碑の移設
時が流れた2000年に、浦項市の道路整備計画により記念碑を移設することになり、楽水会が浦項市当局及び地元関係者と協議した結果、工事費を楽水会が負担して現在の場所に移されました。
・所在地:大韓民国慶尚北道浦項市大甫面九萬二里
快鷹丸の遭難直後に建てられた記念碑の正確な位置を現状では確認することができませんが、記録に残された現場海域を一望する海岸の一隅に整備された敷地が確保されてあります。

移設した機会に、浦項市を介して楽水会と地元代表者が「快鷹丸記念碑管理実務合意書」を作成し、現場の維持管理を実施しています。

現地は浦項市中心からR-925を虎尾方面に向かい、R-912経由途中から海岸道路を通り車で40分。近くに日の出広場、燈台博物館があります。

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■現地訪問記録
1934年=水産講習所杉浦所長が関係者と共に白鷹丸(第3代練習船)に乗船して現地を慰霊訪問…
その後は戦中及び戦後の混乱もあり途絶えていました。
1971年=記念碑再建の通知を受けた東京水産大学(1949年学制改正)及び楽水会は、楽水会山田主事を派遣して現地確認及び謝意表明を含め慰霊参拝しました。
1977年=東京水産大学海鷹丸(第3世)が実習航海の途中、釜山に寄港した機会に大学関係者が学生を引率して陸路現地を訪れ慰霊参拝しました。
1981年=楽水会訪韓団(団長:久保田東京水産大学教授)が慰霊訪問しました。
1983年=楽水会訪韓団(団長:岩本東京水産大学教授)が慰霊訪問しました。
2000年=釜山寄港中の海鷹丸乗船者(学生を含む)及び大学関係者が陸路訪問参拝しました。
2004年=現状確認並びに浦項市及び現地関係者との連絡のため楽水会保存委員会代表が訪問しました。
2005年=東京海洋大学神鷹丸(第3世)が釜山に寄港した機会に乗船者(学生を含む)、大学関係者及び楽水会代表が陸路訪問参詣しました。
2007年=9月9日、遭難100年記念事業として、東京海洋大学長を団長に、楽水会会員、館山のNPO法人安房文化遺産フォーラム会員らと参詣訪問し、現地関係者と交流しました。

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■快鷹丸とスタンバイ
水産講習所及び東京水産大学出身者にとって「スタンバイ」は格別の意味があり、現在でも各地の同窓会、クラス会等に登場しています。独特の音律と動作が組み合わされた集団歌は、伝統的に先輩から後輩に伝承され、往年には遠洋航海出航時や運動部の応援に欠かさず高唱されていましたが、最近でははやらなくなっているようです。

「スタンバイ」の起源は不詳ながら、「快鷹丸の歌」は快鷹丸が活躍していた時代すでに歌われていた由、一説によれば水産講習所の実習基地として馴染み深い館山の老妓が明治中期に歌い出し、講習所に広まったともいわれています。往時は若者の勇壮闊達な放歌高吟調でしたが、1991年に発表された「快鷹丸殉難歌」はソフトムードに変貌し、また、歌詞・順番も多少異なっています。

明治から昭和までに受け継がれた「スタンバイ」は決してスマートとは評価できない蛮カラ調であって、新入生をシゴイタ先輩が快鷹丸の遭難を説教材料に引用したのかもしれませんが、歌の文句は悲劇の発生以前からあったもののようです。初期の調子は今となっては確認できませんので、各年次に習い覚えた調子と動作を自分の「スタンバイ」と理解しておけばよいでしょう。

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「快鷹丸の歌」
1.逢ひはせなんだか館山沖で二本マストの快鷹丸
2.激浪轟々元氣は募る船端打越す波の山
3.月は傾く潮は光る中を乗り切る快鷹丸
4.月は隠れるるコースは亂る辿り辿りて擇捉島
5.遠洋航海北海岸を遙かに眺むる金華山
6.糧は盡くとも元氣は盡きぬ遠洋漁業は勇まし
7.沖の暗いのに航海ランプあれは水産快鷹丸
8.南追手に帆を巻き揚げて上總澪路を走り込む