安房郡震災復興会と朝鮮人保護

1923年の関東大震災において、館山湾に面した海沿いの町は99%壊滅し、大きな被害でした。千葉や東京への道路や鉄道は分断し、陸の孤島となりました。翌日には、安房郡内の山間部より各村の青年団や軍人分会・消防隊などが救援に駆けつけました。

医療機関もほとんど倒壊しましたが、水産講習所が応急の救護所となりました。住宅や家族を失った医師らも無償で負傷者の手当にあたりました。4日には千葉県赤十字社と銚子の医師団が到着しました。

9月29日、安房郡長・大橋高四郎は町村の首長と各復興会の代表を招集して、「安房郡震災復興会(小原金治会長)」を組織し、地域を挙げての協力体制を整えました。

館山で孤児院(千葉県育児園)を主宰していたキリスト者の光田鹿太郎は、園児全員の無事は神の御加護と感謝し、被災者救援に奔走しました。館山湾に停泊していた軍艦に直訴して乗船し、関西・中国方面で救援依頼の遊説をおこない、1千点余の支援物資を仰ぎ、被災者の飢えと寒さを救いました。『安房震災誌』では功労表彰者と記録されていますが、軍都館山の混乱を経て、最後が不明です。

不安と絶望に満ちた人心を平静に導くことに苦心した安房郡長は、食料略奪などが起こらないようにと安心を与えました。特に、東京や千葉県北部で、朝鮮人が暴動を起こすという流言飛語により、多くの朝鮮人が殺害されるという不穏な騒動が伝わってきたときには噂を打ち消し、「朝鮮人を恐れるのは房州人の恥」「郡内にいる朝鮮人は恐怖しているに違いない、保護せよ」と掲示を出しました。これによって、「安房に忌まわしき朝鮮人事件は一つも起こらなかった」と『安房郡震災史』に記されています。

~『館山まるごと博物館』より~