関東大震災と館山
1919(大正8)年、安房北条駅まで鉄道(房総西線)が開通し、新しい時代に向かってまちは変わろうとしていました。その矢先、1923(大正12)年9月1日午前11時58分におきた激震(M7.9)は、東京・横浜などの都会を廃墟にしましたが、なかでも館山湾に面した館山・北条・那古・船形町などは、全半壊や火災焼失した家屋が全体の98%にのぼりました。
安房郡震災復興会を組織し、地域を挙げての協力体制がとられました。道路・河川・海岸・港湾などの土木や建築物の復興とともに、農林水産商業などあらゆる産業の復興が急がれました。
また、震災は地形の変化ももたらしました。高ノ島が干潟で陸続きとなり歩いて渡れるようになり、鏡ヶ浦の海岸線も延びて遠浅の海となりました。高ノ島はじめ海岸沿いでは地震後に鉱泉が湧出したところもあり、海水浴場としての魅力を増し、「復興活動に努力せられつつある都人士を迎えて慰安を与ふる」という観光事業の推進が大きな役割を果たしたのです。土木建築の復興がすすむと、翌年には海水浴客の誘致をおこない、観光振興を通じての震災復興が図られ、宿泊施設は震災前を上回っていきました。
一方、市街地の復興と並行して館山湾が埋め立てられ、震災から7年後には「館山海軍航空隊」が開かれ、軍都への歩みがはじまりました。