明治・大正期の館山における文化交流・転地療養の一端

「明治・大正期の館山における文化交流・転地療養の一端」(安房歴史文化研究会2010年3月例会愛沢報告レポート抜粋)

安房は4つの顔を持っている地域。第1は「房総里見氏と戦争遺跡」。古代から地政上、海上交易の面からも戦略的に重要な場所で、城なり軍事施設が置かれた。第2は「地震と復興」、第3は「地場産業・近代水産業」。3つの海底プレートが交わるまれな地域で、たびたび災害が発生した。だが、人々は農漁業を発展させて、それを乗り越えてきた。

そして、第4が「癒しの地と転地療養」。明治・大正期の館山は、結核などの療養地、保養地となった。

館山が明治・大正期に療養地・保養地となった理由は、この地で酪農や果物づくりなどが発達したこととともに、川名博夫 (富浦生まれ、1864-1947)という人が東大でベルツ博士に学んで、転地療養を取り入れた館山病院を設立したことにある。資生堂創設者の福原有信 (1848-1924)は館山の人で、長女とりが川名博夫に嫁いだ。東京銀座の資生堂ビルの中には、館山病院の営業所があった。関東大震災後は、資生堂が館山病院に出資している。

彫刻家の長沼守敬 (1857-1942)は、パリ万博で金賞を獲得した大変な人物である。東大にあるベルツ博士像も制作し、付き合いがあったという。突然引退して館山に移住した。長沼の持っていた碁盤の裏には「南陽」という文字がある。坪野平太郎 (号・南陽、1854-1925)と囲碁仲間だった可能性がある。

坪野南陽は田村病院の「南陽会」、安房高の「南陽文庫」に名が残る人。東大を卒業し、転地療養で館山に来た。後に神戸市長や一橋大の学長になるが、全国に館山の転地療養を知らしめた重要人物。定年後は関東大震災まで館山に住んでいた。

民芸運動を起こした柳宗悦の兄悦多は、大正期に短期間安房中の柔道教員をしていた。彼は水産講習所卒が縁で、北条海岸に船2隻を所有している。柳兄弟の母は柔道で有名な嘉納治五郎の姉。安房中が水泳や柔道で全国トップクラスになったのは東京高等師範学校との関係が深いが、その東京高師の校長を長くやっていたのが嘉納。

どうも坪野南陽と嘉納は東大の先輩後輩で教育分野でもつながりがあり、南陽らが資金を出して安房出身の在京学生のための寮舎「安房育英舎」をつくる際に、嘉納は建物と講道館敷地内の土地を寄付したという。

福原有信の3男、信三(1883-1948)は、千葉医専から米国に留学して薬学を学び、化粧品メーカーとして資生堂を大きくしていく。社長であったが著名な写真家でもあり、文化事業の発信地として「資生堂ギャラリー」には多くの文化人・知識人を集めた。関東大震災後の株式会社館山病院の社長であり、資生堂-館山病院というルートは、館山にとって文化の流入口の役割を果たしたと思われる。

万里小路通房 (伯爵・1848-1932)もキーマンの一人。明治天皇の側近だった人脈で、神祗官僚福羽美静を通じて栽培技術の第一人者福羽逸人を館山に招き、促成栽培をはじめている。また、長女伴子が佐倉藩主堀田正倫の夫人であったことから、堀田農事試験場とも関わり、通房の農業・畜産分野のネットワークは広かった。

近代水産業の先駆者・関沢明清 とも、農商務省の調査会と担当の貴族院議員ということで関係がある。水産講習所高ノ島実験場の日誌などをみると、万里小路が農業だけでなく水産業にも関心を持っていたことが分かる。

アワビ漁で米国に渡った小谷仲治郎 (1872-1943)は水産伝習所卒業で関沢明清とつながりがあり、後に安房郡水産会長を務めた人物。彼の妹が嫁いだのが画家の倉田白羊(1881-1938)。安房の小学校を回り、児童たちが自由画を描く美術教育を進めた。倉田は、版画家の山本鼎と深い交流を持ち、彼とともに日本の児童自由画運動で画期的な役割を果たした。

青木繁 ・中村彝 ・倉田白洋・山本鼎などの著名な画家たちは、どういうわけか富崎を訪れている。青木繁の没後100年を機に、美術史的な地域の掘り起こしが大事ではないかと思う。

これらの知識人の交流事例については手元に資料があまりなく、痕跡が少ないので不明なことも多い。地域の方々からご協力をいただき、調査研究をしていきたい。