海洋文化と転地療養のまちづくり

 

■海洋文化のまち

造礁サンゴ分布の最北限にあたる館山では、海岸から約1km内陸に入った標高約20mの山腹に、約6千年前のサンゴの化石を見ることができる。地名より「沼サンゴ層」と呼ばれ、地学研究の重要な場所とされている。沖ノ島の海岸線では海底遺跡が見られ、イルカ追い込み漁で焼いて食べたと思われる痕跡も散見される。那古の稲原貝塚では、黒曜石の矢じりが刺さったイルカの骨が発見されている。安房地域には黒曜石がなく、伊豆半島あるいは伊豆諸島との交流があったことが分かる。

大寺山の海食洞穴からは、日本でも珍しい丸木船を木棺にした舟葬墓が発見されている。世界的にバイキングの活躍した同時代、海洋民の生活文化を垣間見ることができる。平砂浦の坂井翁作古墳では、人骨や大刀、須恵器などの副葬品とともに環頭大刀・圭頭大刀(館山市指定文化財)が出土している。古墳時代後期を代表する2つの大刀は、6世紀後半安房地方屈指の豪族が、地方支配の安定化をめざした中央政権から与えられ、権威の象徴として身につけていたものと考えられている。

とくに古くから漁労と交易の湊として栄えた館山湾は、明治期以降は近代水産業発祥の拠点として重要な役割を果たしてきた。その先駆者・関澤明清は、江戸期より勝山を拠点としていた捕鯨組・醍醐新兵衛と組み、館山湾を拠点として捕鯨銃を導入した遠洋捕鯨を確立し、日本人で最初にマッコウクジラを仕留めた。北洋ラッコ・オットセイなどの漁業船団の基地として重要な拠点でもあった。しかし、館山湾が転地療養や保養地として海水浴客が増えたため、捕鯨基地は白浜町乙浜に移転し、戦後は和田町が関東唯一の捕鯨基地となってその流れを継承している。

鏡ヶ浦の名で知られるように波静かな館山湾は、今なお外洋の時化(しけ)のときは避難港であり、遠洋漁業の補給地として適している。

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■転地療養のまち

江戸前の台所であった房州館山の湊と霊厳島(現東京都中央区新川の霊岸島)は押送船で結ばれていた。明治・大正・昭和初期にかけて、キリスト教医師による医療伝道が盛んだった海辺のまちは、大気安静療法による転地療養の地となった。

避暑避寒の保養地として栄える一方、全国的な人脈をもつ政治・経済人や文人墨客も多く、日本の近代化産業に貢献した人物が意外に多いことは見逃せない。北条町には早くから銀行や官庁なども密集し、鉄道が開通した1919(大正8)年以降は安房北条駅(現館山駅)を中心にまちづくりがすすめられていった。

日本で最も隆起しているといわれる館山は、100〜200年のサイクルで大地震が起きるたび、弧を描く湾に沿って隆起した砂丘列に沿ってまち並みがつくられてきた。とくに関東大震災では最大の被災地であり、観光を合言葉に復興のまちづくりを進めたという。

館山駅から市立図書館に向かう路地に、「サイカチの木」と呼ばれる老木がある。サイカチは「皀角子」「皀英」と書かれ、発音が「再勝」に通ずるため、縁起の良い木として大切にされてきた。また幹や枝に鋭いトゲがあるので、門や柵の周囲に備え、転じて鬼門除けの木とされたという。もっとも重要なことは、いざというときに葉が食用、実が洗剤、さらにはトゲが解毒剤になり、役に立つという。元禄大地震では、この木によじ登って津波の難をのがれたという逸話も残っている。

せまい通りを占拠している邪魔な存在と見られがちだが、今まで伐らずに残してきた先人たちの知恵や想いに耳を傾けてみたい。

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