里見氏の終焉・倉吉
関が原合戦のとき、里見義康は徳川秀忠、秀康に従って、宇都宮(栃木県)へ出馬しました。会津(福島県)の上杉氏が、西軍の石田三成と手を組んでいたので、それに対する備えのためでした。この功績が認められて、徳川家康から、鹿島(茨城県)で3万石の領地を新しくもらいます。里見氏の領地は安房と合わせて12万石になり、関東最大の外様大名になったのです。
しかし、義康は若くして病死してしまいます。そのため長男の梅鶴丸は、10歳で家を継ぐことになりました。1606(慶長11)年、13歳のときに将軍徳川秀忠の前で元服の式を行い、秀忠から名前の一文字をもらって、忠義と名乗ります。他にも従四位下・侍従・安房守という位をもらって、幕府の重臣達とも付き合うようになりました。
ところが、1614(慶長19)年9月9日、21歳の忠義が、節句の挨拶で江戸城へいくと、幕府から「小田原城主大久保忠隣(忠義の妻の祖父)に米や足軽を送り、館山城に新しい堀をつくり、浪人を大勢召しかかえて、幕府に反乱をおこそうとしている。よって、安房9万石は取り上げ、鹿島3万石の替わりに、伯耆(ほうき)の国倉吉(鳥取県)に国替えを命じる」という命令を、突然受けたのでした。
家康は、大坂の豊臣家を滅亡させる合戦をする前に、江戸を安全にしておくことを考えていました。そこで、関東にただ一つ残った外様大名の里見家を、取りつぶしておくことが家康の狙いだったのです。
わずかな供を連れた忠義は、大坂で行われている合戦を横目にしながら、暮れの12月に倉吉に着きました。着いてみると忠義が与えられた領地は、4千石しかありませんでした。倉吉では、故郷の安房へ帰ることをひたすら神仏に願う生活でしたが、3年後にはその領地さえも取り上げられてしまいました。
そして1622(元和8)年6月、お家再興の夢も空しく、忠義は29歳の若さで病死しました。里見家は断絶となり、8人の家臣が主君の死とともに切腹したといわれています。倉吉の大岳院には、今も忠義と家臣の墓が残っています。
里見氏がいなくなった館山では、幕府が館山城を取り壊しました。壊した建物は堀の中へ捨て、堀は埋めてしまいました。城山公園の駐車場をつくるときの発掘で、そのときの廃材が沢山出てきたことがあります。
【関連書籍】
●伯耆国倉吉における里見氏研究報告書
『里見叢書①今よみがえる里見忠義の足跡』