房総里見氏の歴史

里見氏は、上野国榛名にある里見郷という地で新田一族のひとりが里見姓を名乗ったことがはじまりとされています。15世紀中頃に安房国にあらわれた里見義実は、白浜城(南房総市)を取り立てて安房進出の第一歩としました。やがて安房を支配するのにふさわしい地・稲村城(館山市)へと進出し、その子義通が安房国主となりました。その子義豊のとき、1533(天文2)年に天文の内乱がおき、翌年には犬掛の合戦で討ち取られ、家督は分家筋の義堯にわたりました。この内乱以降、稲村城は廃城となりました。

実力で政権を掌握した義堯のもと、里見氏は上総国へ進出し、16世紀には戦国大名として、後北条氏と東京湾の海上交易をめぐって戦いを繰り広げられました。両者の戦いは約40年間続いたが、里見義頼の平和外交策によって和睦が結ばれると、東京湾の海上交易が活発になっていきました。

16世紀後半になると、豊臣秀吉から命令違反を問われ上総領を没収された里見義康は館山城へ移り、高ノ島湊を流通の基地として新しい領国支配をはじめました。

関ヶ原の合戦で徳川家康側についた義康は恩賞として3万石を加増され12万石の関東最大の外様大名になりましたが、3年後に31歳で亡くなり、わずか10歳の梅鶴丸が家督を相続することになります。梅鶴丸は将軍秀忠の御前で元服して忠義と名乗り、やがて家康の側近大久保忠隣の孫娘を妻に迎えたものの、1614(慶長19)年9月9日、突然国替を言い渡され伯耆国(鳥取県)に移されました。その間に館山城は破却され、ほとんどの堀は埋められました。里見氏が館山に在城したのはわずか20余年間で、伯耆国倉吉に移された忠義は、1622(元和8)年に29歳で亡くなっています。

*書籍『あわがいど②房総里見氏』はこちらを参照。

下位セクション

里見氏の終焉・倉吉
関が原合戦のとき、里見義康は徳川秀忠、秀康に従って、宇都宮(栃木県)へ出馬しまし […]