関東大震災と安房の人びと〜那古町の被害と復旧・安房と朝鮮の人びととの交流
●関東大震災と安房の人びと〜那古町の被害と復旧・安房と朝鮮の人びととの交流
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生し、中央気象台の地震計の針はすべて吹きとばされた。この関東大震災によって、東京市と横浜市の大部分が廃墟となり、その被害は千葉県はじめ関東一円と山梨・静岡両県に及んだ。安房地域のなかでも館山湾岸沿いの館山・北条・那古は、地震により全壊したり、火災で焼失した家屋が全体の97〜98%にのぼり関東大震災の被災地では最も大きな被害を受けた地域となった。
東京でもとくに悲惨であったのは、両国の陸軍被服廠跡の空地に避難した罹災者約4万人が猛火によって焼死したのをはじめ、死者と行方不明者は、14万人以上であった。全壊・流失・全焼家屋は57万戸にのぼった。この大地震と火災の大混乱のなかで、「朝鮮人が暴動をおこした、放火した」との流言飛語のもと、政府は戒厳令を布告して、軍隊や警察を動員したほか住民たちには自警団をつくらせ、関東全域で「朝鮮人狩り」がおこなわれたといわれる。恐怖心にかられた住民や一部の官憲によって、数千人の朝鮮人と約200人の中国人が殺害された。亀戸署管内では軍隊によって10人の労働運動指導者が殺され、また憲兵によって大杉栄が殺され、社会主義運動は大打撃をこうむったのである。
1926(大正15)年6月には、千葉県安房郡教育会から『千葉県安房郡誌』が発行されている。緒言には、大正天皇即位の記念事業として郡誌の編纂が計画され、1919(大正8)年に出版と決めていたが、財政問題や郡制の廃止、そして関東大震災に遭遇したことで出版は延び延びとなって、大変な苦労のなかで完成したと記されている。その意味でも関東大震災後の復興期に発行された『千葉県安房郡誌』が果たした意義は大きく、なかでも巻末に記載されている「震災誌」は、貴重な記録といえる。
その「震災志」から那古町の被害状況をみると「此処は激震地帯の一部である。家屋の倒潰、地理上の変動等は各章に記するが如く北条・館山に次ぐの惨害である。近当町人畜の被害を数字に記すれば左の如くである。
死傷者 死者一二五人 傷者三〇〇人 牛馬圧死三頭
(救助戸数 八八八戸、人員 五一八〇人)」
また、「此処は、隣の船形と共に、館山湾に沿ふ激震地帯である。調査表に現はれた比較で見ても驚くばかりである。即ち建物の被害は、全戸数九百戸に対して百分の九八に達している。死傷者も可なり多かつたが、建物も殆ど全滅といった姿である。之を表示すれば、
住家 全潰 八七〇 半潰 一八 寺社工場 三二 半潰 四
非住家 一七〇五 一一二 学校役場 二
房州で有名な那古観音は、板東三十三観音札所の一であるが、地震で山崩れの為堂宇は大破損を来したが、直ちに復旧に着手した。」と記載されている。
当時、北条警察署が発表した那古町の死者は、一一六名(男四一名・女八四名)、負傷は二六八名(男一一六名・女一五二名)とあり、また家屋の全潰も、八七二軒、半潰は三一軒、非住家の全半潰は、六〇三軒といっている。数字的には若干の違いがある。
さらに「震災誌」のなかに、学校での子どもたちの様子が次のように述べられている。「教育上の被害 那古町 校舎の全潰、校具の全部が破壊されたので、授業を中止すること月余に及んだ。殊に技能教科、理科教授などは、一時その跡を絶たねばならなかった。訓練上からいふと、児童の一般は不規律となつた。不節制となつた。言語・風俗も粗野に流れた。又身体、居室の不潔、校舎、校具の不完全からして、視力、姿勢などにも影響をうけた。要するに物資的損害は、勿論多大であつたが、精神的無形の損失も、実に大なるものがある。」
そして注目すべき記載が「第六章慰問と救護」である。「九月三日の晩であった。北條の彼方此方で警鐘が乱打された。聞けば船形から食料掠奪に来たといふ話である。田内北條署長及び警官十数名は、之を沈静すべく那古方面へ向て出発したが、掠奪隊の来るべき様子もなかつた。思ふに是れは人心が不安に襲はれて、神経過敏に陥った為に、何かの聞き誤りが基となつたのであらう。すると、郡長は『食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ』といふ意味の掲示をした。…果して掠奪さわぎはそれで沮止された。また是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。安房郡は館山港をひかへているので、震災直後東京の鮮人騒ぎが、汽船の来往によつて伝はつて来た。果然人心穏やかならぬ情勢である。郡では此の不穏の噂を打消す為にも亦た大なる苦心をした。丁度滞在中であつた大審院検事落合芳蔵氏も鮮人問題に少からず心を痛め、東京から館山港に入港した某水雷艇を訪ひ、艇長に鮮人問題の事を聞いて見ると、同艇長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであつた。そしてそれを郡長に物語つた。物語つたばかりではない、人心安定の為に自分の名を以て艇長の談を発表しても差支なしとのことであつた。之を聞いた郡長は、大に喜び直ちにさうした意味を記載して、北條・館山・那古・船形に十余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。而かも大審院検事落合芳蔵の名を以てしたのであつた。…其処で田内北條署長と共に『此際鮮人を恐るるは房州人の恥辱である。鮮人来襲など決してあるべき筈でない』といつた意味の掲示を要所々々に出した。加之ならず『若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖しているに相違ない、宜しく十分の保護を加へらるべきである』とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざることであるが、一朝騒擾を惹起したらんには、地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。郡長が細心の用意は実に此処にあつたのである。蓋し安房に忌まはしき『鮮人事件』の一つも起らなかつたのは、此の用意のあつた為めであらう。」
この出来事は安房各地でも発生し、那古では役場に勤めていた佐野松太郎が罹災記録に「…長い丸太棒を持った消防組員に突然囲まれた。『お前はどこへ行くのか』と。事情を聞いてみると、『風聞によると、今、井戸の中に毒を投げ込む者が来るらしいので、町内に不穏な分子が入り込まないよう、交替で立ち番をしているのだ』と言っていた」と記載している。
安房地域において、千葉県北部を中心に勃発した「朝鮮人虐殺」という痛ましい出来事が、全く記録されていないことだけでなく、全くそのような証言もないというのはなぜであろうか。この事実の背景を考えるうえで重要なことは、安房では大正期より水産業分野において済州島などからのアワビ採取海女の出稼ぎという人的な交流があったことを考えなければならない。このような朝鮮の人びととの間にあった豊かな交流文化があってこそ、朝鮮の人びとの気持ちを踏まえた対応がなされた要因であったと推察するのである。