元禄大地震と安房の人びと〜那古寺の被害と復旧

●元禄大地震と安房の人びと

17世紀後半には5代将軍徳川綱吉の政権が成立し、いわゆる元禄時代が出現した。綱吉の政治は、大老の堀田正俊が補佐しておこなわれたが、正俊が暗殺された後は、側用人の柳沢吉保がこれに替わった。政治理念には、武士には主君に対する忠と父祖に対する孝、それに礼儀による秩序を第一にした儒教の文治主義を採用した。綱吉はまた、仏教にも帰依して、1685(貞享2)年から20年余にわたって、生類憐みの令を出し、犬を大事にし生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する状態や他人の飼犬までも殺生してしまう戦国社会のような殺伐とした風潮を断つことになった。

綱吉の時代は、幕府財政の転換期になった。佐渡鉱山などの金銀の産出量が減少し収入減となっただけでなく、明暦の大火後の江戸城と市街地再建の費用、引き続く元禄期の寺社造営費用などが大きな負担となって、幕府財政の破綻を招いていった。1707(宝永4)年には、富士山が大噴火して駿河や相模などの国ぐに、そして安房の地にも降砂があって、多くの農地に大きな被害をもたらした。

 

●那古寺の被害と復旧

1703(元禄16)年11月23日、安房白浜沖を震源とするマグニチュード8・2に相当する巨大地震が発生した。元禄大地震と呼ばれるこの地震は、真夜中の丑の刻(午前2時頃)におこったといわれ、多くの人びとは避難が遅れて被害は甚大なものであったといわれている。館山市富崎地区相浜の浄土宗寺院漣寿院には、元禄大地震で亡くなった人びとの供養塔がある。相浜だけでも津波によって、老若男女86人が犠牲者になったと刻まれている。那古寺には再建に関わる文書があって、1724(享保9)年に寺社奉行宛に出された再建のための本尊開帳願書である。このなかに地震による山崩れのため建物すべてが埋没したことなどが記載されている。

元禄地震前の姿を示している1672(寛文12)年の「那古寺浦浜并山論裁許絵図」と現在を見比べると、海岸線は隆起によって大きく改変したことがわかる。現在の県道(旧国道)付近が地震前の海岸線と思われるが、300〜400mほど後退し干潟になったと推定される。館山湾岸を見ると、那古地区から館山地区にかけて200〜400mの干潟ができ、館山地区の柏崎から高の島に向かって造られていた土手は崩れて、高の島の南には隆起によって浅瀬ができたという。

現在、地学的な見地から元禄大地震は、相模湾から房総半島の先端部、房総半島南東沖の相模トラフ沿いの地域を震源域として発生し、プレート間の地震ではなかったかと指摘されている。関東南部を中心に強い地震動が広範囲に生じ、被害状況から関東南部の広い範囲で震度6相当、相模湾沿岸地域や房総半島南端では震度7相当あったと推定されている。房総半島や相模湾の沿岸部を中心に津波が襲って、とくに房総半島では死者が6,500名以上となり、全体としては1万名以上の死者を発生したと推定される。

地震では、房総半島から相模湾沿岸にかけて地面が最大約5m隆起したと考えられ、房総半島には地震による海岸隆起が今も海岸段丘として残っている。この段丘を含めて約6千年間に海岸段丘が4段作られており、過去にも元禄地震と同様に海岸を隆起させるような大地震があったと推定されている。なお、元禄大地震と1923(大正12)年の関東大震災とを比較すると、双方とも相模トラフ沿いで発生したM8の巨大地震であり、被害の範囲や地殻変動の様子がよく似ているといわれ、地震が発生した場所が同じか、極めて近いところと推定されている。

元禄大地震が安房に与えた被害は甚大であったが、どのように復興していったのだろうか。那古寺にある寺社奉行宛の本尊開帳願書によると、震災から20余年のなかで那古寺別当職が支配する鶴谷八幡宮の再建を優先して復興させたため、那古寺再建は全体で5分の1程度しか進んでおらず、観音堂や僧房などは仮屋のままであるといっている。完成させるには外部からの助成がどうしても必要なので、江戸での開帳を願いたいと記載されている。つまり、檀徒の無かった那古寺の住職にとって、幕府寺社奉行の認可によって資金確保に奔走することになった。

ところで、開帳とは日頃は秘仏として拝願が許されない本尊を一定期間、その帳を開いて、信者に結縁の機会を与えることである。那古寺の出開帳は、幕府の管轄下にある開帳寺である浄土宗回向院でおこなうことが許可された。回向院は江戸での出開帳の4分の1を占める筆頭寺院で、記録によると166回開催されている。ここでの那古寺出開帳は、3回おこなわれ、初回は1725(享保10)年、2回目は1756(宝暦6)年、3回目は1818(文政元)年であった。

出開帳の2回目の様子については、那古寺の世話役であった商人伊勢屋甚右衛門が記した文書(『高瀬家文書』)が残っている。これによると江戸本所の回向院にむけて那古寺千手観世音が出立したのは、1756(宝暦6)年2月27日のことで、途中、勝山・佐貫・木更津などの寺で開帳しながら、3月10日より5月29日まで回向院で開帳された。帰りも村々で開帳しながら、6月27日に那古に戻ってきた。7月8日より8月18日まで那古寺においても開帳して、この間の出開帳によって「六百弐拾弐両弐分ト六百文」の収入があったと報告されている。再建資金がある程度貯まると、さっそく建築資材を仕入れる代金に、また職人を確保する資金となった。翌1757(宝暦7)年正月より、本格的な建築作業が開始され本堂地形の譜請だけで、約5カ月間で延1万8千人が関わったと記載されている。

那古寺の再建は信徒であった人びとだけでなく、門前町として地域経済に深く関わった存在であったので緊急なことであった。江戸での出開帳だけではなく、安房においてもさまざまな取り組みがされたなかで、1757(宝暦7)年に観音堂と多宝塔の再建のため、伊勢屋甚右衛門が願主になって広く浄財を募る萬人講が呼びかけられ、安房の全域から多くの人びとが参加した。これによって総計398両余の資金が集まったといわれる。