安房の自然とくらし

●安房の地形

千葉県全域の三分の一が丘陵地であるが、房総半島南部・安房地域にある愛宕山の408mを最高標高として、平均標高98mの起伏地帯が房総丘陵と呼ばれている。半島南部・安房地域のほぼ全域に房総丘陵が広がり、なかでも長期間にわたって浸食や断層・褶曲の変形をうけて、起伏が最も大きい地域が、東京湾岸の鋸山から外房の清澄山地域を結ぶ長狭地域であり、そのひとつが嶺岡山系である。安房地域では館山平野や長狭地域の加茂川低地など以外は丘陵が海岸線まで迫っており、波の浸食による海食崖や急斜面がつくられている。

●嶺岡山系の特徴

嶺岡山系をみると、地質学的に断層によって破砕された第三紀の地層や蛇紋岩が分布し、それが風化して粘土質層となり、小規模な地滑りが多数発生している地域である。その結果、これまで地震や台風、集中豪雨などによって20〜30m幅で魚の鱗のように山の上から下まで段々に地滑りが発生してきた地域である。

気候的には、太平洋に面しているため黒潮の影響を強くうけ、海洋性の温暖な気候である。なかでも鴨川市では年平均気温は約15度、特に冬の月平均気温が7度と暖かく、零度になるのはまれであり、露地の花栽培にとっては好条件という。これまでの最高気温は1984年に記録した35・0度、最低気温は1985年に記録された零下6・4度である。降雨量からみると、千葉県の年間平均降雨量が約1100ミリで、この地の年平均降水量は約2000ミリに達し、台風や集中豪雨での一時的な降雨量は極めて高く、日本で有数な降雨地帯とあるといっていい。

植生上では暖帯林が多く分布していて、シイ、カシ、コナラの群落がみられ、海に近い斜面には、マサキ、トベラなどの低木が分布している。なお、太平洋沿岸にある鴨川市江見から南房総市和田地区にかけては、海岸段丘が形成され、温暖な気候を利用して、早くから花栽培を中心とした農業をおこない、海岸線北部の東条海岸や前原海岸は砂浜であるが、その先の天津小湊・勝浦方面、あるいは南部の太海や江見の海岸線は海食崖や岩礁地帯であり、古来より伝統的な磯根漁業がおこなわれてきた。

●嶺岡山系の棚田と嶺岡牧

これまでの地理的歴史的環境や地理的地質的なデーターからみると、平安期からはじまったと思われる嶺岡牧の形成は、地滑り地帯での湧水などの地形状況と関係あると推察される。また、中世の里見氏や正木氏が関わってきた軍馬育成のための嶺岡牧や棚田の形成も、その地形状況に関連していると考えられ、さらに江戸幕府直轄になっていった嶺岡牧の継続や、その周辺での棚田農業の展開には、やはり地滑り地帯での湧水などが考慮されたのではないか。

ところで、嶺岡山系の稜線地帯(嶺岡林道のあるライン)は地滑りの空白地帯となっている。稜線の下の斜面からは地滑り地帯であり、その地形を形成しているところが、人工的に改変され棚田になっていったと思われる。そのなかでも標高50〜100mのところに棚田地帯に多いが、それは地滑りにともなう湧水地形に関係があると考えられる。それは扇状地の扇端での湧水地帯に水田が多いと同様に、地滑り地帯でも扇状地形であり、粘土の保水層から流出した地下水を効果的に利用しているのである。

1970年に嶺岡林道開削中に、8世紀の火葬墓か祭祀跡かと推測される嶺岡遺跡が発掘され、畿内中央政権とも関連があるともいわれる一級品の白銅製七鈴鏡が出土した。嶺岡山系は、銅やニッケルなど鉱物資源が産出しているところでもあり、採掘場所を表すような小字名も残っている。棚田の形成とともに、鉱物資源の産地という面で重要な地域である。文献的には、平安期の『和名抄』に記載されている「長狭郡」の八つの郷のうち「任部・日置・酒井」などが嶺岡山系内にあったと比定され、奈良・平安期から嶺岡山系に人びとが住みつき、棚田による農業生産をおこない、中央政権の行政機構がつくられた可能性がある。そこで次の4つの点から嶺岡牧や棚田誕生の理由を考察してみた。

①保水能力の高い強粘土質(蛇紋岩が風化して形成)だからこそ、地滑りが起きるが、この粘土質の土壌は栄養分が少なく、植生上では樹木育成に不向きで、多くは牧草地になっている(嶺岡山系では、現在地滑り防止のために植林をしている)②地滑り地形は断崖や窪地など起伏が多く、野馬などの捕獲に好都合で馬牧に最適である。③湧水を利用して安定的な水飲み場が確保でき、森林が少なく見通しが良いので、管理上馬牧として優れている。④嶺岡牧の周辺で棚田が囲むようにあり、それは柵や土塁替わりになり、野馬の拡散を防止する役割も担っていたのではないか。

このように地滑り地帯であったり、棚田地域であったことが嶺岡牧の形成に好都合であったと推測されるなら、平安末期から平氏や源氏が軍馬生産のために嶺岡山系にやってきたと考えられ、源頼朝が石橋山の戦い後に安房にきた理由も、丸御厨に関わる嶺岡牧が絡んでいたのではないか。頼朝が安房から決起したのも、三浦氏が平氏であった長狭氏を倒すことで、軍馬を確保しようとした可能性は否定できない。鎌倉期より三浦氏や和田氏は嶺岡山系周辺に拠点をもっていたことや、後にその子孫であるとの伝承をもつ正木氏が嶺岡山系を拠点に、里見氏を寄せ付けない支配地をつくった理由もそこにあったと考えられる。正木氏は嶺岡浅間山の地滑りのない場所(白滝層という安定的な地形)に本城であった山之城を築城している。この城郭周辺は地滑り地帯であり、かつて棚田地帯であったと思われる。

正木氏は地滑り地帯において、棚田を作っていった人びとの生活の知恵を効果的に利用し、城郭建設においても災害復旧の大土木工事を応用していたのではないか。食糧増産のための方法として、強粘土層の棚田地帯の米の生産力をあげる肥料として、近隣の海岸にあった海藻などを使用していったのではないだろうか。生産力の増強は、正木氏の力を押し上げ、結局は里見氏とともに房総半島支配につなげていったと推察されるのである。

これまでの歴史研究では、里見氏や正木氏の支配地域と棚田地帯との関係を考察するものはないが、周辺の寺社などが正木氏と深い関係があったいわれていることをみると、災害のなかにも生きる知恵を発見した安房の人びとのエネルギーを正木氏は見逃さなかったのではないか。神仏に感謝する行為としての寺社建設や祭り行為を通じて、世俗的支配を可能にしていったと思われる。

鴨川市の大山千枚田は、愛宕山の麓の3.2ヘクタールの斜面には375枚の小さな田んぼが整然と並んでいる。そこに日本の原風景を感じさせるのは、先人たちの困難や努力があらわれているからではないか。

世界有数の隆起地帯である南房総・安房の海岸段丘は、過去の大地震による急激な隆起によってつくられてきた。なかでも元禄大地震や関東大震災による海岸の隆起を利用した耕地利用を効率よくはかってきた歴史を見ると、漁業と農業を融合した先人の知恵が生かされ、災害を乗り越えてきた姿を感じる。

地滑りをも利用した棚田農業や海女による磯根農業、あるいは突きん棒漁法の漁業は労力がかかり、一見遅れた産業形態のように見え、ともに近代的な流れから取り残されてきたように見えるが、実は環境に優しい、そして人が環境と共存するにふさわしい形態であったのではないか。これまで歩んできた世界史的な近代化の流れがいま、環境を考えた生産活動や先人たちの知恵を生かした生活と暮らしから、持続可能な社会であるかどうかの視点で見直していくことが重要であろう。