江戸時代の文化・文政期と安房の文化
●文化・文政時代と安房の文化●
江戸の繁栄を背景に都市に生活する人びとの活力に支えられ文化が広まっていった。この江戸の町人文化は化政文化とよばれるが、都市の繁栄や商人・文人の全国的な交流、そして出版・教育の普及や寺社参詣の流行などによって全国各地に伝えられていった。幕藩体制の動揺という現実のなかで、学問・思想の分野では古い体制から脱しようとする動きがあった。
★≪十返舎一九が歩いた安房の道≫
まず文学では、身近な政治や社会の出来事が題材とされ、出版物や貸本屋の普及もあり広く民衆のものとなった。なかでも小説は、さし絵で読者を引きつける草双紙や江戸の遊里を描く洒落本、あるいは黄表紙とよばれる風刺のきいた絵入りの小説が売り出された。文化期には庶民の生活を生き生きと描いた滑稽本がさかんになり、 江戸っ子の弥次郎兵衛と喜多八の旅を面白可笑しく描いた『東海道中膝粟毛』の十返舎一九などがいる。この一九が著した絵草紙のなかに1828(文政11)年刊行の『方言修行金草鞋十七編〜小湊参詣金草鞋』という房総道中記があるが、このなかに江戸から房総の道すがら各地の名物や滑稽な出来事が面白可笑しくつづり、そのなかで那古観音を紹介している。当時の那古は飴が名物で、那古寺門前には飴屋がたくさん並び賑わっていた様子を描いている。
旅人「なるほど、ここの娘は飴屋だけ、飴のとりてこしらへたような姉(飴)さまだか、そのかわりぶっ切り棒(ぶっきらぼう)」でなくて、顔は白玉の上に少し桜飴がかかってにちゃにちゃと汁飴らしい顔付き、そのくせ水飴たくさんにみえて旨そうだから四文ばかりここの姉(飴)さまを買ってみようか」
飴屋「名物飴をお買いなさりませ。私のところの飴は、この嬶(かか)しゅと娘と二人手のひらへ唾(つばき)をつけてのばした飴で旨いことは請け合い。私ののばした飴には唾の中へ痰を混ぜるから、そこで痰切と申します評判で、お買いなさい」
旅人「飴をかんだら、何かジャリジャリして気味が悪かったから吐き出した。その飴に入れ歯がくっついて吐き出したから、これはと、それを取ろうとするうちに、犬が来て、その入れ歯も飴も喰ってしまったからつまらない。とんだ目に会うた」
★≪曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の登場≫
これらの絵入りの本の系統に対し、文章主体の小説では歴史や伝説を題材にした読本で、江戸の曲亭馬琴が評判となった。なかでも、『南総里見八犬伝』は勧善懲悪・因果応報の思想のもとに豊かな構想で描かれ、1814(文化11)年から1841(天保12)年までの実に28年間にわたって書き続けられた長編小説であった。全国的に広く長く読み継がれてベストセラーになったので、改易されて現実には存在しなかった里見氏の名が知られることとなった。房総地域を舞台した『南総里見八犬伝』ではあっても馬琴自身、房総に一度も足を運んだことがなかったので、中村国香の『房総志料』の事項を駆使し歴史地理的な安房の姿をフィクションの世界にちりばめていった。そのことはかえって小説を通じて里見氏の虚像を生み、史実が歪められる原因となった。ただ、『南総里見八犬伝』を通じて馬琴は、15世紀後半の戦国期の幕開きである関東を二分する享徳の乱や房総里見氏の変遷を題材にして、19世紀に入って江戸の町にあった時代閉塞的な状況を打破するために、民衆に夢やロマンを与えていったのではないか。なお、小説には「那古七郎」とか、その弟には屋号を苗字の那古を逆さにした「古那屋文五兵衛」が登場し、那古をイメージする言葉も使用されている。
★≪俳諧を楽しんだ安房の人びと≫
俳諧では18世紀の後半、京都の与謝蕪村が、化政期には信濃の小林一茶が農村の生活感情をよんで、庶民である自分の主体性を強く打ち出した。江戸中期頃より庶民の生活のなかに文芸活動が浸透し、地方でもその指導者が成長し、多彩な文芸文化が花開いてくる。とくに那古寺参詣を通じても江戸との交流が深い那古において、多くの文化人が訪れて文芸が活発になるが、その代表が俳諧であった。
安房における俳諧の様子をみると、指導者となる宗匠たちが各地で活躍しており、俳諧する人びとは経済的にゆとりのある階層だけでなく、周辺に文化的な環境があると普通の商人や農民、漁民でもたしなんでおり、江戸後期から盛んに俳諧がおこなわれていた。個人での俳句だけでなく、俳人同士で句をつくったり、また多くの人びとが集まって句会を開いたり、さらには旅先で各地の俳人との交流をもって句作に励むこともあった。なかには作品を集めて句会を開き採点したり、奉納俳諧といって優秀な句だけを額や行灯にして、神仏へ祈願のため神社や寺に奉納することもあった。
なかでも芭蕉を敬愛する俳人たちは、安房でも18基の芭蕉碑が建立し、那古では1793(寛政5)年に亀ヶ原地区の新御堂に芭蕉100回忌の碑を、また那古寺境内には1823(文政6)年に芭蕉130回忌の碑と、那古の小原地区稲原の山口路米を発起人に安房の俳人139名が1889(明治22)年に建立した句碑、さらに正木の諏訪神社には1863(文久3)年に雨葎庵高梨文酬らによって芭蕉句碑が建立されている。
江戸時代にはさまざまなことにランク付けがされて番付表にされたが、1852(嘉永5)年刊行の『海内正風俳家鑑』によると全国的な俳人の番付には、正木村の高梨文酬ら安房の俳人六名が記載されている。当時、神仏への祈願や供養のために社寺で句会を催し奉納することがあった。新年の祝賀として集められた歳旦句を披露した句額では、1870(明治3)年に大井の手力雄神社に奉納されたものがある。春をテーマに22句の作品と絵師渡辺雲洋の梅の図が描かれた句額の催主は、那古の小原地区の俳人山根路行という人物であった。那古からは甘実庵田村菱湾をはじめ安房全域の中心的な宗匠が句を連ねているので、俳人たちのネットワークが形成されていたことがわかる。
★≪相撲人気と安房の力士たち≫
そして庶民の娯楽の代表は歌舞伎と相撲であった。歌舞伎はそれまでの人形浄瑠璃の人気にかわり、18世紀後半から江戸を中心に隆盛を誇り、寛政期には中村・市村・森田の江戸三座がさかえた。さらに、文政期の『東海道四谷怪談』の鶴屋南北らの狂言作者と、7代目市川団十郎や尾上・沢村・中村らの役者が、歌舞伎の人気を高めた。また、相撲は近世前半には大名や旗本など武家だけが楽しむ娯楽であったが、庶民が相撲を求める要望は高く、幕府は1744(寛保4)年に全国の力士が集まって合同の興行である勧進相撲を公認した。これは主に夏に京都、秋に大坂、冬・春には江戸で開催するもので、晴風や小野川の両横綱や雷電などの強豪力士がそろっていた天明・寛政期には人気を博し、最初の全盛期となった。1791(寛政3)年には、初の将軍上覧相撲が江戸城の吹上庭で開催されたが、この将軍上覧によって、その後相撲に格式と権威が与えられ、娯楽の花形となっていった。
1854(嘉永7)年に、江戸の力士一力長五郎が那古寺の石垣(大蘇鉄)を奉納したとの伝承がある。この時期に相撲取りになったのが、北条仲町の農民常左衛門(屋号枡屋)の子平助である。若い頃より田舎相撲の強豪で、24歳の時に江戸の両国に出て、谷川円太夫(象太郎)に入門した。1859(安政6)年の番付には、鍬方平助の四股名で登場し、3年修行の後に阿波の蜂須賀家のお抱え力士となり、轟の名をもらい、1866(慶応2)年に、讃岐国丸亀の京極家のお抱え力士となって「象ケ鼻」と改名している。身長5尺7寸5分(174cm)、体重30貫(112.5kg)で十両七枚目の象ケ鼻は、その後、前頭・関脇と昇進して、1871(明治4)年には、当時の最高位であった大関にまで昇りつめ、1890(明治23)年に亡くなっている。