安房の鉱業
1897(明治30)年頃、那古地区正木岡から白土が産出したので、那古桟橋=「蒸汽場」から東京方面に出荷されたといわれる。かつて館山や豊房、館野などの山中から大量の白土が採掘され、その痕跡の廃坑が今も数多く残っている。白土は、水に対する膨潤性がある酸性の土壌で、粒子が極めて細かいことから磨き砂やクレンザーなどの研磨剤、あるいは歯磨粉などに使用されていた。
ところが、精米する際の研磨剤になったり、昆布の間に挟む材料になってからは、大量に出荷されるようになった。その後、用途が広がり、赤みをもった低質の白土はビール瓶の原料に、また黒みを帯びた白土はスレート瓦やセメントなどの建築材料に使われるなど、房州産白土は特産品となり、全国的に知られる地域の重要な地下資源となった。
この白土がいつ頃から採掘されたのかは不明であるが、北条藩の1787(天明7)年の『安房国安房郡御領分村鑑明細帳』には、館野の加戸村で「白土運上金三両余増減有之」と記載され、江戸後期にはすでに採掘されていた。『安房志』には、1803(享和3)年に飯沼字峰で採掘し、年間の産出高が数十万俵との記載がある。エレキテルで知られる平賀源内が「嗽石香」という歯磨き粉を宣伝しているが、その一節に「・・・・はみがきの儀、今時の皆様は能くご存知の上なれば、かくすい野ぼの至なり。その穴をくはしくたづねたてまつれば、≪房州砂≫ににほひを入れ、人々のおもひつきにて名を替えるばかりにて、元来下直(値段の安い)の品にてござそうらへども・・・。このたび箱入りにつかまつり、世上の袋入りの目方二十袋分一箱に入れ、御つかひ勝手よろしく、袋が落ちり楊枝がよごれるというようなへちまなことのこれ無きよう仕まつり・・・・」とあり、房州砂が白土であり、この房州砂にハッカやジャコウ、乳香などの香料を入れて歯磨き粉にしたという。
明治に入り岩谷松平(社長)や小原金治(取締)らが「安房坑道会社」を設立するなど、白土生産は拡大していき、大正期でも安定した産出がなされ、地場産業として大いに盛況していたといわれる。
こんななかで関東大震災が勃発し、坑道が潰れるなどの壊滅的な打撃をうけ、多くの廃坑を生んでいった。また、その後白土の研磨剤を使用しない精米機や、クレンザーと違う化学洗剤の登場によって、房州産白土は次第に消え去っていったのである。