館山・安房の歩んだ歴史

 日本列島の中心で太平洋に開かれ、海に囲まれた房総半島の先端部の館山は、海とともに生きてきた歴史が重層的に重なっている。東京湾の入口に位置する海上交通の要衝であり、海を越えてさまざまな文物がもたらされ、交流文化が育まれた地であった。

■ 古代・中世

6~7,000年ほど前の縄文期は、縄文海進が内陸まで入り込み、海面は現在の標高20~30mくらいであった。稲原貝塚鉈切洞穴遺跡などでは、海岸線の高台や海食洞穴が住居になっていた。その後、海岸線が後退し、地震による隆起が繰り返され、沖ノ島周辺の海岸線に近い遺跡からは縄文土器や魚介類、イルカなどの骨などが出土している。墳墓として利用されていた海食洞穴からは、人骨や副葬品の勾玉などが出土している。なかでも 大寺山洞穴はや甲冑などとともに丸木舟を木棺としていた舟葬墓が発見され、全国的に重要な遺跡である。

8世紀半ば、『日本書紀』に「淡水門(あわのみなと)」と記されているのが館山の平久里川河口の湊であったと推定され、そこから上流3~4km地点の砂丘上に安房国の国府や国分寺があったとされる。大和朝廷にとって安房国は海上交通の拠点であるだけでなく、海産物にめぐまれ、 なかでも鰒(あわび)は特産品として都に運ばれていた。そのことは平城京から出土した木簡(荷札)からわかる。なお、平安期には延喜式において安房神社や洲崎神社、洲宮神社などが式内社として位置づけられている。

石橋山で敗れた源頼朝は、安房で再起を図り鎌倉幕府を開いた。鎌倉の対岸でもある安房には武士や僧侶の墓とされる「やぐら」が数多く存在するなど鎌倉文化圏といえる。なかでも萱野遺跡から北条氏の家紋がある瓦が出土し、鎌倉鶴岡八幡宮や極楽寺・建長寺などと関わる寺院ではないかと推測され、鎌倉との交流が深いものがあったと考えられる。

15世紀中頃に関東戦国期の幕が開き、上野国新田氏を源流とする房総里見氏の祖・里見 義実は、鎌倉公方足利氏の命を受け、対立していた関東管領上杉氏を駆逐するために安房に進出。拠点の白浜を攻略した後、国府に近い要衝の地に稲村城を築き、支配を固めた。16世紀の「天文の内乱」では、国主義豊は敗れ、庶流の義堯(よしたか)が家督を握った。戦国大名として実力をつけた義堯・義弘は、約40年にわたり東京湾の海上交易をめぐって後北条氏との戦いを繰り広げた。平和外交策をとった義頼の代には安定した領国支配を実現したものの、16世紀後半になって義康は上総国を没収され安房一国だけの大名となり、居城を館山城に 移して城下町建設をすすめた。その際に、交易拠点として高の島湊を整備し、商人を保護して国内流通をすすめた。

■ 近世

関東最大の外様大名であった里見忠義は、幕閣大久保忠隣の孫娘を妻にしていたが、1614(慶長19)年、突如国替えを命ぜられ、結局伯耆国倉吉に改易された。館山市大網の大巌院には「四面石塔」と呼ばれる1624(元和10)年の供養塔があり、朝鮮の古い字形のハングルや寺の開祖雄誉霊巌(おうよれいがん)の名が刻まれている。この人物は江戸に霊巌島を造成して霊巌寺を創建し、後には知恩院の住職になる高僧で、徳川家や里見家と深い関係をもっていた。

その後は幕府直轄地として代官や旗本が安房国を支配し、とくに海岸警備や水軍(海軍)に関わって石川氏や小笠原氏をはじめ、屋代氏や稲葉氏などの譜代や旗本が陣屋を置いた。江戸へ物資を運ぶには浦賀番所での検査があったが、霊巌島の河岸から江戸前の鮮魚として食卓に上がっていたため、安房の押送船は素通りしてもよいという特別な許可を得ていた。当時、江戸まで陸路では4日かかったが、押送船では霊巌島まで10時間程度であり、安房にとって 江戸は物資供給地というだけではなく、多くの働き手を送り込む身近な都市であった。江戸前の鮮魚とともに、坂東三十三ヶ所巡りの結願所である那古寺がある安房は江戸の人びとに知られていた。曲亭馬琴は、周辺に安房出身の職人や奉公人がいたからこそ、長編小説『南総里見 八犬伝』を描くことができたともいえる。寺子屋を通じて、飢饉や災害を乗り越えていく知恵や、祭礼などの伝統文化が継承されていった。17世紀の農民一揆「大神宮七人様」は多くの犠牲がでたものの、その教訓は30年後の18世紀初めの「万石騒動」に生かされたと思われる。万石 騒動では農民たちが大挙して江戸の屋代家に出向き、幕府の賓客朝鮮通信使の外交行事をねらって門訴したのである。名主3名の犠牲があったが、農民たちは江戸での情報を利用した知恵によって勝利したのであった。明治になって、自由民権運動のなかで民衆のたたかいの 事例として万石騒動が取り上げられているのは興味深い。

幕末になると海防強化のために台場などが江戸湾岸につくられ、1810(文化7)年、松平定信は竹岡や白子、波左間に陣屋を設置し、洲崎には台場が建設された。その後、忍藩は大房岬を台場にするとともに、陣屋は北条鶴谷に移転し、海岸にも砲台を設置した。

■ 近現代

1868(明治元)年、長尾藩・花房藩・勝山藩・館山藩の4藩が安房を領地としたが、版籍奉還と廃藩置県により 木更津県になり、その後に印旛郡と合併して千葉県になっていった。近代日本の文明開化や殖産興業の波は、東京・霊巌島からの海路を通じて館山に流れ込んできた。

1878(明治11)年、汽船が東京・霊岸島と館山間に就航し、5時間と大幅に短縮され、新鮮な農水産物が大量に輸送された。自由民権運動においても小野梓や田口卯吉などを弁士として演説会が開催され大きな影響を与えた。そのなかで小原金治や満井武平などが政治家の道を歩み、官吏の吉田謹爾や正木貞蔵なども後に民間で活動することになる。

安房の殖産興業をみると、1889(明治22)年に東京湾汽船会社(後の東海汽船)が設立され、房州うちわや竹材製品、水産加工品、白土などの特産品が東京に向けて輸送された。東京からは避暑避寒をはじめ海水浴や、東京高師や帝大など学校の水泳訓練・合宿、また結核などの転地療養の保養地として多くの人が訪れている。なかでも尾崎紅葉、島崎藤村、山村暮鳥、林芙美子、若山牧水などの作家や、浅井忠や青木繁、坂本繁二郎、中村彝(つね)、多々羅義雄などの画家が足を運んでいる。とくに青木繁は、東京美術学校を卒業した1904(明治37)年夏、仲間4人で富崎村布良の小谷家に逗留し、後に重要文化財となる絵画『海の幸』を描いている。

近世から続いた勝山の醍醐新兵衛の伝統的捕鯨や、明治以降に富崎村を中心とする神田吉右衛門や小谷治助らが関わるマグロ延縄漁などは、水産伝習初代所長関澤明清の水産教育や、関澤が官吏を辞して取り組んだ様々な近代水産業の事業とつながっていく。関澤が築いた近代捕鯨や北洋遠洋漁業などの礎は、継承した実弟の鏑木余三男(かぶらぎよそお)や小原金治、神田吉右衛門らによって房総遠洋漁業株式会社が設立され、安房を代表する殖産興業に展開していった。

しかし当時、マグロ延縄船での遭難は多く、富崎村長の神田吉右衛門はたびたび地元で水産懇話会を開催し、漁船の改良や遭難の漁民救済を話し合っていた。なかでも注目されるのが、松岡村出身の福原有信(銀座「資生堂」創業者)が社長に就任した帝国生命保険株式会社と連携して、布良同盟保険を始めるなど、全国漁村のモデル的な取り組みをしたことである。日清戦争勃発の年に小原金治は国会議員になるが、安房郡長在職中の吉田謹爾や福原有信らと諮って、安房の殖産興業を推進する安房銀行(現千葉銀行)を設立している。

さらに、地域に生きていく先人たちの知恵や技能などを継承するため安房の人びとは、教育の場を大切にしていた。小学校教育だけではなく、地域の中等教育や専門教育機関の設置を要望して奔走していた。富崎村では神田らが、明治初期から器械式潜水によるアワビ漁を村営として導入し、利益は村の共有財産として漁業振興や疾病予防をはじめ小学校設立資金や  近隣の村々の子どもたちも含めた奨学金制度を充実させた。

大正期になって安房を大きく変貌させたのは、1919(大正8)年に安房北条駅(現JR館山駅)まで鉄道が開通したことである。これまで海路に依存していた地域経済は、鉄道という陸上の 物流システムが登場したことで、駅を中心とする商店街の形成など、まちづくりを含めてあらゆる分野での変革となった。

学校教育や文化活動の面でも、大正デモクラシーなどの影響があった。千葉師範学校付属小学校主事の手塚岸衛は、児童の自発性や個性を尊重する「自由教育」を提唱し、安房郡の取り組みは県下一であると評価された。同時期に、館山に住んでいた画家倉田白羊も、子どもの美術教育に自由な表現を取り入れる「児童自由画運動」推進し、郡内の各小学校で指導したり、教師の研究会や児童画展覧会(大正10年)を開催していった。この頃、安房美術会(後の 館山美術会)が中村有楽らによって設立されている。震災後に移住した寺崎武男は、安房の神話を描いて安房神社などに奉納にするとともに、安房中学で美術指導にあたっている。

20世紀に入って、日露戦争や第一次世界大戦、ロシア革命など世界史的な激動の時代になっていた。そのような時期、1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起こった。震源に近い 館山市は壊滅的打撃を受け、関東各地のなかで最も大きい被害地域となったが、キリスト者の光田鹿太郎や被災した医者らが率先して献身的な行動をとった。官民一体となって安房震災復興会(会長小原金治)が組織され、道路・河川・港湾などをはじめ農林水産商業などの立て直しをすすめた。また、震災時には、朝鮮人が暴動を起こすというデマにより多数虐殺されるという出来事が東京や千葉県北では起きていたが、『安房震災誌』によると、当地では人びとの動揺を心配した安房郡長が、そのような行動を戒め朝鮮人を保護したと記されていることは注目に値する。翌年には海水浴客の誘致をおこなうなど観光振興を通じての震災復興が図られていった。

ところで、日清・日露戦争などの対外戦略に沿って、日本の主な海峡や港湾の防衛のために大規模な要塞が計画された。1880(明治13)年に起工され、1932(昭和7)年に完成したのが 東京湾要塞である。帝都東京や海軍の拠点横須賀を防衛するためにさまざまな軍事防御施設がつくられ、そこに住む人びとは国家機密ということで厳しい規制下におかれた。

昭和に入り、急速に経済が悪化するなかで軍部が台頭し、自由な教育や文化、民主的な  運動は抑圧されていく。関東大震災で隆起した館山湾の浅瀬を4年近くかけて埋め立てて館山海軍航空隊(以下、館空と略)が開隊したのは、世界恐慌の翌年、1930(昭和5)年のことである。1941(昭和16)年には平砂浦海岸の防砂林を切って耕地も改変して広大な演習地をつくり、  神戸村に館山海軍砲術学校が開設された。1939(昭和14)年に館山北条町・那古町・船形町が合併して県下5番目の市となり、名称も館山海軍航空隊や館山湾から館山市とした。東京湾  要塞地帯の一角に重要な軍事施設が多数置かれていたので、館山市は軍都になっていった。

館空は全国で5番目に開隊し、主に航空母艦(空母)から出撃する艦上攻撃機(「艦攻」)などの実戦パイロットを養成する基地であり、「陸の空母」と呼ばれていた。同時に、海上を飛行する航空機無線通信のモデル基地であり、海軍航空機の実験・開発や機動部隊構想をもっていた海軍の航空戦略では、要的な役割をもつ基地になっていった。

この頃、航空要塞的な役割をもつ赤山地下壕がつくられ始めたと推察される。基地では中型陸上攻撃機(中攻)の開発に成功し、後に中国への「渡洋爆撃」につながり、また「艦攻」のパイロットには、ハワイ真珠湾攻撃を想定させるような猛訓練が課せられていった。さらに対米英開戦直前の3カ月間、海軍初の落下傘部隊が館空の上空で行っていた実戦訓練を目撃した館山市民は、戦争が始まる予感を抱いたという。

こうして1941(昭和16)年12月8日、対米英戦が勃発して、館山は太平洋世界に向かっての最前線基地になった。米軍側からの反撃は続き、1944(昭和19)年には日本の絶対国防圏は 崩れて、B29戦略爆撃機での本土空爆がはじまった。1945(昭和20)年の初めの硫黄島上陸 事前作戦では、館山基地へ激しい攻撃を加えるだけでなく、列車や民間施設も攻撃目標となるなど、安房の人びとは本土決戦が目前に迫ってきた実感をもった。戦争末期、本土決戦の最重要地域となった安房には、7万人近い軍隊を配備し、最後の抵抗陣地を鋸山にするなど、「第二の沖縄戦」を想定して迎え撃つ態勢を整えていった。館山基地や赤山地下壕周辺をはじめ  安房の各地には、本土決戦に備えた陣地や砲台、そして様々な兵器による特攻基地の建設が突貫工事で進められた。米軍は日本本土侵攻作戦計画「コロネット作戦」によって、関東を攻略して帝都東京の占領により戦争終結を考えていた。しかし、日本軍は反撃する力はすでになく、1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言の受諾を国民に伝えた。しかし、軍都館山ではさまざまな部隊が配備されていたので、クーデター未遂事件がおこるなど不穏な情勢下にあった。

ミズーリ号の降伏文書調印式の翌日、9月3日に米占領軍本隊約3,500名が館山に上陸して、本土で唯一の「4日間」の直接軍政が敷かれた。館山市内に外務省終戦連絡事務所(木村屋旅館)が設けられ米軍の窓口となっていた。

軍都館山の人びとの戦争による傷跡は深く、市民たちは平和を求めていた。館山病院では 英会話教室が開かれたり、米兵相手の土産物店ができたりしたという。だが市民は、自由大学講座をはじめ様々な文化サークルをつくり、職場には民主的な労働組合をつくった。また大正期の手塚岸衛の「自由教育」に影響を受けた北条小学校校長和泉久雄らは、北条プランという教育実践を発表し、全国的なモデル教育として評価された。

1947(昭和22)年世界で最初に民間ユネスコ運動を始めた仙台ユネスコ協力会が結成され、翌年には全国でも数番目、千葉県内では初めての館山ユネスコ協力会が設立された。日本が60番目のユネスコ加盟国として認められたのは1951(昭和26)年であるが、その年、館山にはユネスコ保育園が開かれた。現在も、世界で唯一ユネスコを冠した保育園は、ユネスコ精神を 受け継いで運営されている。

1954(昭和29)年に、西岬村・神戸村・富崎村・豊房村・館野村・九重村6村と合併し、現在の館山市となった。1965(昭和40)年、海軍砲台跡地を払い下げて、深津文雄牧師により婦人  保護長期収容施設「かにた婦人の村」が開設された。