布良崎神社

 

【主祭神】天富命(あめのとみのみこと)

【相殿】 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
金山彦命(かなやまひこのみこと)

【祭礼】7月20日過ぎの土曜日

【由緒】(境内の案内版より)
主祭神に天富命を祀り後に素戔嗚尊・金山彦命を合祀し安房神社の前殿(下社)となる。御祭神天富命は五世紀、神武天皇の勅命を報じ沃土を当方へ求むべく天太玉命の御霊(みたま)と四国の忌部氏(いんべうじ)を率いて紀伊半島・伊豆半島を経由しこの房総の地、布良の駒ヶ崎に上陸した。祖神、天太玉命を男神山(安房神社御祭神)に安置し、后神(きさきがみ)天比理刀咩命(洲宮神社御祭神)を女神山に安置し漸次開拓の歩を進められ北上し特に麻・殻(がじ)の播殖を奨励し、製錬技術に優れ建築並に漁業の技術を指導され、衣食住の神として崇敬される。安房神社を一旦は布良の神谷(かみやつ)に鎮座し此処を出発地点として現在の安房神社(吾谷山)に西暦717年に鎮座し、祖神、天富命を祀る。

二つの鳥居の間に富士山を拝むことができるビュースポット。

2019年、令和元年房総半島台風の直撃により、本殿は傾き、ご神木は倒れ、神輿蔵が潰滅して神輿も損傷した。4年がかりで全国の支援者から基金を募り、神輿を再建した。

布良は、房総開拓神・天富命(あめのとみのみこと)が四国の阿波忌部氏を率いて上陸した地といわれる神話のふるさとである。阿由戸(アイド)の浜の目の前には女神山と男神山がそびえている。天富命を主祭神とする布良崎神社は、安房神社の前殿である。

『海の幸』は、布良崎神社の神輿がヒントになったと地元では考えている。青木繁が布良にやってきたのは7月中旬、当時の祭りは8月1日。大天皇と呼ばれる1トン近い神輿を、海の男たちが跳ねながら担ぐ。御浜くだりの神事では、女装した男衆が神輿を担いだまま海に入り、襦袢がはだけた男衆の裸体も神輿も夕陽を浴びて黄金色に輝く。氏子総代だった小谷家はすぐ隣にあり、青木も感動したにちがいない。 『海の幸』は、左右の端はピントが甘く、未完成だという説もある。しかしそうではないと、 石橋財団石橋美術館の森山秀子学芸課長は語る。「神話好きの青木は多くの神話を描いている。『海の幸』も漁師の姿をしているが、これは人類が海からやって来て海に還るという神話を描いたもの」だという。まさに、夕陽の祭典のシーンに重なる。

祭礼は、7月下旬の日曜日。朝10時から祭典。夕方5時に出祭し、漁村の狭い路地を練り歩き、日没時には布良漁港で御浜くだりの神事。現代では海に入ることはないが、100年前の勇壮なシーンが目に浮かぶ。暗くなってから心臓破りの地獄坂を慎重に登り、安房自然村の駐車場で相浜の囃子踊り手と合流し、宵闇のクライマックスが続く。

はじめ布良に開かれた安房神社が現在の地に移った 717 年、その跡地に布良崎神社が創建された。1876(明治9)年に布良の大火があり、神社が消失したため、周辺区域では茅葺を禁止する誓約が立てられ、1878(明治 11)年より三州瓦の職人を家族ごと招いて、神紋の十三菊の鬼瓦をはじめ布良で瓦を焼き始めた。1880(明治13)年から積み立てた8年間の貯金を基金にして境内を整地した。1889(明治22)年に再び大火があり、被災した小谷家は瓦葺で現在の住宅を建てている。 その後、1908(明治 41)年に現在の社殿が造営された。

境内から海を眺めると、2つの鳥居の間に富士山が見え、本殿に上がると水平線が鳥居の上に重なるように設計されたビューポイントである。

城壁のような石垣は、マグロ漁の最盛期、伊豆稲取で水揚げした船が軽く不安定なため持ち帰った丸い伊豆石を、三州瓦の職人が工夫して積み上げた。関東大震災でも崩れることなく、今に残る文化遺産である。

古代の民俗風習において、神が宿る自然物が信仰の対象とされていた。神社の原点といえるのが磐座(いわくら)であり、社殿や鳥居は後年建てられたものである。村人は素朴な磐座に祈りを捧げ、磐座から暦を読み解いて季節ごとの潮の流れや干満を知ったという。冬至には、磐座の背が向く直線上の水平線(伊豆大島と伊豆半島の間)に太陽が沈み、夏至には、一の鳥居と磐座を結ぶ一直線上に日が沈む。