ヘリテージまちづくり講座2013

ヘリテージまちづくり講座2013

関 和美(NPO法人安房文化遺産フォーラム)

『ヘリテージまちづくりのあゆみ』収録

1.はじめに

もともと歩くことが好きで好奇心の強い私は、ウォーキングのイベントに参加するたびに、知識豊富な各地のガイドに出会うたびに感銘を受け、憧れていた。2008年に地元館山で開催された「里見ウォーキング」に参加したとき、高校時代の恩師に出会った。地域にある戦争遺跡(以下、戦跡と略)や文化遺産などの保存・活用をすすめているNPO法人安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラム)の代表、愛沢伸雄先生である。私はガイドの勉強がしてみたくて、早速NPOフォーラムに入会した。

生まれ育ったまちなのに、活動を通して学ぶことは初めて知ることばかりで、新鮮な驚きと感動を得ている。勉強会やガイドを通じて、多くの人と出会えることも楽しい。単なるガイド活動にとどまらず、地域の課題を見つめながら、文化遺産を活かした多様なまちづくり活動を展開している。

そのひとつとして、2013年に文化庁補助事業として「ヘリテージ(文化遺産)まちづくり講座」が開催された。地域を学ぶだけにおわらせるのではなく、私は講座参加にあたり、病院図書館勤務という仕事柄、「医療」と「図書館」をキーワードにしたまちづくりのアイデアを考えてみようと思った。

2.オリエンテーション:シンポジウム「東京湾まるごと博物館」

~戦争遺跡と文化財を活かした館山と追浜のまちづくり~

神奈川県横須賀市追浜において、東京湾要塞の戦跡である第三海堡の保存・活用を通じてまちづくりを進めるNPO法人アクションおっぱま(昌子住江理事長)の皆さんが来訪し、NPOフォーラムと共催してシンポジウムを開催した。

基調講演では、近畿大学の岡田昌彰先生から戦跡を活用した日本や世界の事例が映像によって紹介された。原寸大の模型を置いて戦跡の理解を助けたり、レストランや公園ですべり台として利用したり、「これはなんだろう」と興味を持ってもらうような学習的な取り組みなど、様々な仕掛けをもった施設や方法を知ることができた。

そこで思い出したのが、赤レンガ倉庫を増改築した東京都北区立中央図書館(2008年オープン)のことである。まず、図書館の前に立ったとき、「なぜ赤レンガなのだろうか」という疑問がわくが、館内に入るとこれが戦跡(「旧東京砲兵工廠銃砲製造所275号棟」大正8年建築)であることが紹介されている。さらに奥に進むと「北区の部屋」という郷土資料室があり、専門職員のサポートを受けられて、戦跡や地域の歴史文化を深く知ることができる。私は工夫された図書館の仕掛けに衝撃を受けた。

シンポジウム終了後は、追浜と館山で戦跡をガイドするメンバーの交流を兼ね、フィールドワークがおこなわれた。2011年追浜の東京湾第三海堡遺構移設記念シンポジウムでは丁寧に分かりやすくガイドしていただいたが、今度は私が館山の戦跡をガイドすることになった。ガイドする立場とガイドを受ける立場、双方から意見交換することはとても勉強になる。お互いのまちの代表的な戦跡である、追浜の貝山地下壕跡と館山の赤山地下壕跡の違いを学ぶことができた。このように、情報交換しながら地域間交流のネットワークづくりを積み重ねていくことが、「東京湾まるごと博物館」のような広域連携につなる第一歩となると感じた。

3.第一回講座:東京湾要塞(上総地区)の戦跡視察

木更津市史編集に携わっている栗原克榮先生(千葉県歴史教育者協議会)の案内で、上総地区(富津・君津・木更津)に残っている東京湾要塞の戦跡を見学した。房総半島と三浦半島は目と鼻の先であり、とくに富津岬からはせまい浦賀水道の第一・第二海堡がよく見える。追浜の第三海堡や館山の戦跡との関係性を立体的に認識することができた。

木更津海軍航空隊(現海上自衛隊木更津駐屯地)の近くに、第二海軍航空廠付属の「共済病院」があったが、現在は「木更津病院」であるという説明があった。病院勤務の私は、地域にある病院の歴史に関心をもっているため、このことが最も印象に残った。後日、木更津病院のHPを見ると、ここは精神科専門病院であり、その沿革は「1955(昭和30)年、当時の君津郡市医師会の末吉弥吉会長から『この地方には精神科病院が無いから造らないか?』と呼びかけがあり、この精神科必要論が理事会から医師会会員に広がり、設立機運が高まった」「1959(昭和34)年、東京鉄道病院木更津分院が千葉鉄道病院に移転することになり、その本館(木造2階建)ならびに付属建物を日本国有鉄道より買い取った」と記載されており、戦時中に第二海軍航空廠付属の「共済病院」であったとは書かれていない。

一方、対岸の横須賀には「国家公務員共済組合連合会横須賀共済病院」があり、その沿革は「戦争中は軍関係の病院だった」となっている。なぜ、木更津病院は「共済」の名が消えたのであろうか。疑問をもった私は、自分なりに調べてみた。『千葉県の歴史』(千葉県史)や『千葉県医師会雑誌』の年表を見ても、木更津に「共済病院」があったという記載はない。栗原先生によると、戦時中の地図や証言から軍事施設としての「共済病院」があったという程度しか分からないという。「共済病院」が第二海軍航空廠付属であるなら、木更津海軍航空隊に関連する病院であり、戦後も横須賀と同じような公的な病院となり、東京鉄道病院木更津分院になっていった可能性も考えられる。『終戦から67年目にみる沖縄戦経験者の精神保健』(沖縄戦トラウマ研究会編集2012年)という本によると、沖縄ではいまだに戦争による後遺症(PTSD:心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人が多いという。仮説ではあるものの、木更津病院が精神科として設置を求められたことのヒントにならないか、と推察している。

NPOフォーラムでは、「館山まるごと博物館」のひとつとして転地療養の地である歴史文化を取り上げ、調査を進めている。その時代、その場所に病院が開かれた理由があり、その背景を調べていくと、地域の人びととの関わりにおいて病院の歴史を考えることができるという。愛沢代表は、とくに館山病院の歴史を通じて埋もれていた近現代史を明らかにしており、『博道会館山病院120周年記念誌』にも「地域の医療文化としての館山病院の歴史」を紹介している。私は、文化遺産という言葉に対して、モノとしての文化財という視点だけで狭く見ていたが、私たちの周りには有形無形の対象が広く存在し、地域の医療文化もまた文化遺産であるという。その歴史をほりおこし、磨きをかけていけば、まちづくりに活かせる文化遺産のひとつであるということを学んでいる。

また、地域の歴史文化を知る手がかりは、「病院の歴史(沿革)」や「医師会史」あるいは「社史」などからも発見できることに気がついた。調査研究において、「この事柄はこの資料しかない」と断定的に捉えがちだが、全く異なる分野の資料に書かれていたり、ヒントが隠されていたりすることが分かって、さまざまな調査研究が面白くなっている。NPOフォーラムでは「逆さ地図」を象徴に、「いつもと違う視点で見てみると異なるものが見えてくる」と言っているが、この意味が分かるような気がしてきた。私の仕事は、医師などの病院職員が必要とする情報を入手するための支援をすることだが、情報検索に困った時もこの方法は役に立つ気がしている。

4.第二回講座:漁村資料の保存・管理と活用

NPOフォーラムでは、近代水産業発展のうえで重要な歴史をもつ北下台(ぼっけだい)エリアは、「館山まるごと博物館」においてヘリテージまちづくりの重点地区と考えている。ここにセミナーハウスをもつ中央学院大学法学部の「現代社会と法コース」では、新入生オリエンテーションの一環として、「館山まるごと博物館」の活動実践とフィールドワークを取り入れている。今回の講師の白水(しろうず)智先生は同学准教授で、神奈川大学日本常民文化研究所の客員研究員でもある。長年にわたって、長野県栄村の古文書調査に携わってきたご経験を伺った。同村は、東日本大震災翌日の2011年3月12日に、震度6強の東北同様未曽有の大地震に見舞われ、甚大な被害を受けた地である。村の総世帯数931のうち、家屋の被害が694棟、土蔵や倉庫など非居住建築物は1,047棟が被災した。地域に残る古い文書や民具は、近現代史を知る貴重な手がかりとなる文化財である。危機感を憶えた白水先生は住民に呼びかけて「地域史料保存有志の会」を発足し、文化財救出運動に取り組み始めたという。

損壊建物が次々と解体されるなか、置き場所の確保などの問題をひとつひとつ乗り越え、活動報告会などを通して、あらゆる世代の村民に「文化財を守ること」の理解を促した。村民たちは活動を通して、救出した古文書から先人たちの生活や苦労を知り、そこから誇りと自信を取り戻していったという。この流れを重視した自治体は、廃校の旧校舎を村の文化財保管庫とすることを決定し、今では、村の歴史・文化遺産を活かしたまちづくりが復旧計画のなかに位置づけられたという。

「古文書や古い資料は家族写真と同じ、地域のアルバムといえる。その地域らしさとは、景観や生活の知恵などの文化が、次の世代に継承されていくことである。生活基盤が復旧するだけでは、人は生きていかれない。文化が復興して初めて地域の復興につながる」という白水先生の言葉が心に響いた。

私も小学生の頃、地域をまわる学習があり、農家を訪問したり文化財をめぐったりしたことを思い出した。なかでも、不思議な文字が刻まれた大きな石塔は子ども心に衝撃的な印象があった。これこそが現在、「館山まるごと博物館」で日韓交流の歴史を伝えている重要な文化遺産「四面石塔」(千葉県指定有形文化財)である。とくに古いハングルが刻まれている石塔は珍しく、韓国本土にもほとんど存在しないという。まさか30年後に、文化財ガイドとして何度も訪れる場所になるとは夢にも思わなかった。まるで石塔に導かれてきたかのような不思議な縁を感じている。

午後は、古文書の整理・保管について学び、実際に小谷家住宅や小原家住宅から見つかった明治期資料を仕分けして目録を作り、中性紙封筒に保管するという演習をおこなった。発見したときの状況を再現できるように、所有者に聞き取り目録に記録を残した。このような作業を市民がやることは有意義であると思われる。専門家ではなく、地元住民だからこそ分かる新たな発見があった。身近な知人の家から発見された史料だからこそ、もっともっと知りたい、研究してみたいとも思えてくる。このような作業を通じて、住民同士の連帯感や地域に対する誇りが生まれてくるという相乗効果も感じられる。

青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会を発足し、ヘリテージまちづくりに取り組んでいる漁村の富崎地区では、方言や屋号、お祭りの見せ場、道具の使い方、布良星と呼ばれるカノープスが見えそうな時期と場所など、さまざまなことを教えてもらった。このような話こそ文化遺産であり、記録伝承に値する内容といえる。高齢者がひとりで家にいるよりは、みんなで集まっておしゃべりをしながらの資料整理作業も、何かの役に立つと知れば生きがいにつながるのではないか。さらに、徳島県上勝町の「葉っぱビジネス」事業のようにお小遣い稼ぎになれば、もっと元気になるかもしれない。

5.第三回講座:佐倉の歴史文化を活かしたまちづくり視察バスツアー

今回はバスで佐倉を訪問し、NPO法人佐倉一里塚の山倉洋和理事長とメンバーのガイドで、佐倉城跡・佐倉連隊跡・武家屋敷などをめぐった。中世城跡の遺構や戦跡、伝説など解説は多岐にわたり、まさに「佐倉まるごと博物館」である。佐倉の歴史は館山に通ずることも多く、とても勉強になった。

NPO法人佐倉一里塚の交流拠点は、明治期の呉服商「旧駿河屋」の建物である。まず、居心地のよい歴史建物のなかで山倉理事長から活動の経緯や苦労話を伺った。次にNPO法人全国生涯学習まちづくり協会福留強理事長からまちづくりの講義を受けて、館山からの参加者の感想を出し合って、まちづくり活動の交流をおこなった。

私が興味を持ったものはやはり病院関係のことであり、「東京鎮台佐倉営所病院」の創設後、「佐倉営戌病院」や「佐倉陸軍病院」となり、時代とともに名称を変えながら場所を移して、現在は「聖隷佐倉市民病院」となったという歴史である。たまたま私の友人がその病院に勤務していることで、『病院史』の存在を聞いたが、残念ながら分からなかった。このような会話がきっかけに、友人は自分が暮らす佐倉の歴史に興味もち、もっと知りたいと思ったようだ。

佐倉は「西の長崎・東の佐倉」と言われるように、千葉県の医療史や佐倉の歴史を見るうえで「順天堂」の存在は極めて重要である。館山の松岡出身で医薬分業を提唱した「資生堂」創業者福原有信も、順天堂の佐藤尚中と関係があった。医療だけでなく図書館という点でも、佐倉には興味深い出来事がある。それは戦後、順天堂医院長佐藤恒二は貴重な医学書を千葉大学に寄贈している。なぜ東京の順天堂大学ではなく千葉大学であったのか。現在、千葉大学附属図書館亥鼻分館には「古医書コレクション」なるものがあり、佐藤恒二の本も含めて5,000冊以上の蔵書がある。コレクション収集の経緯は様々な理由があるようだが、戦時中、古医書の焼失・散逸を防ごうとして集められたとの話も残っている。

ところで、『疎開した40万冊の図書』(館山市立図書館蔵)という本には、戦時中に東京都の日比谷図書館(現在、日比谷図書文化館)など全国各地の図書館で、貴重な図書を戦火から守ろうと疎開させた話が記載されている。なお、帝国図書館の貴重書籍の疎開先に一つに、松代大本営を建設していた長野県が選ばれているのが興味深い。全国の図書疎開が始まった1943(昭和18)年8月に館山市立図書館が、市内の中心である館山駅前に開館したのはなぜなのか疑問がわく。その後、館山市立図書館は移転しながら、1957(昭和32)年からは館山病院副院長川名正義が館山市立図書館館長を務め、県立中央図書館協議会委員になっている。私の専門分野である図書館の調査を進めることで、館山を通じて図書館や図書を保存・活用していく、何かのヒントがあるよう思えてならない。

それにしても図書の疎開と文化遺産の保存の思いには、ともに人類が育んできた文化を守っていくという点では同じではないか。戦後の千葉県の図書館活動をあげると、1949(昭和24)年、移動図書館車(「訪問図書館ひかり号」)を戦後の早い時期に走らせている。その年には千葉県鴨川町(現鴨川市)や奈良県天理市において、学校図書館司書を対象にした『学校図書館の手引き』(1948年)の伝達講習会が開催されている。実は、戦後の安房地域は、公民館活動や青年団活動の立ち上がりが極めて早い地域であったといわれ、学校図書館活動においても、全国に普及させていくモデル的な取り組みが千葉県立長狭高等学校で実施されていたという。

今回は遠方へのバスツアーであったが、移動の車中で「館山まるごと博物館」DVDが上映されたのは、単なる観光ツアーにならないための仕掛けとして有効であったと思う。なお、たいへんお世話になった山倉理事長が2014年2月に急逝されたと聞き、驚いている。心よりご冥福をお祈りしたい。

6.第四回講座:館山の歴史建物見学会

最初に、NPOフォーラムの愛沢代表の案内で、館山市内に残る歴史建物や町並みをめぐった。関東大震災で99%壊滅した館山は古い建物が少ないと思いがちだが、震災を乗り越えた金物屋や、震災直後に建てられたモダンな建物が意外と残っていることに改めて気づく。今はなくなってしまったが、昔ここにも古い建物があったなということを思い出した。NPOを率いて指導しているリーダーが、長い時間を費やして実際に足で歩き、住民の聞き取りや文献調査の積み重ねによって、今日のヘリテージまちづくり講座が開かれていることを思うと、その苦労や功績もまた大切な文化遺産であるといえる。

文化財建造物保存技術協会の榮山慶二先生を講師に迎えた座学では、「壊すのはあっという間だが、つくるのには100年かかる」という話を伺った。榮山先生が手掛けた那古寺の改修では、古い骨組みを残し、新しいもの(補強)を足していったとのこと。腐食や破損の理由は、文化財建物保存のヒントを教えてくれるという。

この日は3ヶ所の歴史建物を見学した。1ヶ所目の紅屋商店(国登録文化財)は、私の友人宅で小学校の頃よく遊びに行った家である。このような価値ある建物とは知らなかったが、現在彼女は佐倉市の国立歴史民俗博物館に勤めていると聞き、やはり不思議な縁を感じた。また、同じ市内にある築160年の小原家住宅当主の村上さんから「小原家のものは昔から全部紅屋でそろえてきた」と伺い、わくわくしてきた。縁のある紅屋商店と小原家住宅をめぐるウォーキングコースはどうだろうか。スタート・ゴール地点はどこがよいか、どのルートが安全か、ほかにも回れるところがないか、いろいろと考えてみた。実際歩いてみれば、また新たな発見があるに違いない。

2ヶ所目の赤門鈴木家住宅(国登録文化財)は病院長の自宅である。震災の翌年に建立された和洋折衷の建物も素晴らしいが、赤門こと赤門整形外科内科の歩んできた歴史も興味深い。戦時下においては軍に接収され、終戦直後にはアメリカ占領軍に接収され、ともにサロンとして使われたという。和室にある雪見障子は、私が先日見学してきた新潟県新潟市の旧齋藤家別邸と同じ横開きの珍しいタイプであった。新潟も館山の富崎地区と同じく漁業により発展していったまちで、歴史建物も住民による保存運動があったと聞き、類似点も多く感じた。ヘリテージまちづくりを考えるうえで、全国各地の事例を見聞することからも再発見があり、保存・活用のアイデアも浮かんでくる。

3ヶ所目は、NPOフォーラムの拠点としてなじみ深い、小高熹郎(おだかとしろう)記念館である。戦前は水産会社経営と県議会議員、戦後は鳩山一郎内閣の衆議院議員として政界で活躍した小高熹郎は、サトウハチローや白鳥省吾らと交友を深めた詩人でもあり、その功績は没後、館山市名誉市民に賞されている。建物は大正初期の古川銀行鴨川支店を、震災後の昭和初期に水産会社事務所として移築し、戦後は各種の事務所を経て文化振興の拠点であったという。没後10年を経て、NPOフォーラムが遺志を継承した文化交流拠点として活用することに対してご遺族の理解をいただき、2006年から管理運営をまかされている。講師の榮山先生によれば、「建物は使わなければだめになる、NPOが使うことで建物が生き返った」という。ここから生き返ったのは建物だけでなく、この建物を中心とした北下台地区にまつわる歴史文化もまた息を吹き返し、蘇ったといえるだろう。

7.番外編①:東京の歴史建物の視察

NPOフォーラムが事務局を担っている「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」では、富崎地区の小谷家住宅(館山市指定文化財)の保存のために、全国の画家が組織するNPO法人青木繁「海の幸」会とともに修復基金を募り、2016年の一般公開を目ざしている。

運営委員を中心としたメンバーで、東京の新宿区立中村彝アトリエ記念館と文京区にある旧安田楠雄邸庭園(東京都名勝)の視察に行った。移動中の車内で、新宿と館山、文京と館山の歴史的つながりについて紹介があり、とても興味深かった。それをヒントにさらに調べてみたいと思った。

画家の中村彝は、館山で転地療養した後、青木繁『海の幸』から10年後に同じ布良で描いた『海辺の村(白壁の家)』が第4回文展に3等入賞し、翌年から東京の新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の支援を受けている。館山駅前にある館山中村屋は、新宿中村屋から全国唯一のれん分けされた老舗パン屋という縁があり、店内に『海辺の村』の同寸大複製画が展示された「まちかどミニ博物館」である。大正期建立のアトリエは、再三にわたる住民の保存運動を経て、新宿区が修理復元し2013年春に記念館として公開された。館内には、画家の生涯を紹介する映像が流され、代表作品の複製画が展示されている。「本物がないのはさみしい」という声もあったが、逆に複製画であれば自由に写真撮影ができるというメリットも大きく、画家が実際に存在した場であるという空気感は感動に値する。

旧安田邸は、安田財閥の末裔遺族が邸宅を財団法人日本ナショナルトラストに寄贈し、NPO法人文京歴史建物の活用を考える会(通称:たてもの応援団)が管理運営を委託されている。安田家の前には、相馬愛蔵・黒光夫妻が住んだ地ということで、不思議な縁はどんどん広がる。

小谷家住宅の保存・活用を考える上で、画家のアトリエと規模という点では中村彝記念館の展示方法などがかなり参考になり、規模は異なるものの個人住宅を民間が管理運営しているという点では旧安田邸が参考になった。視察参加者にとっても、小谷家住宅公開後のイメージづくりに役立ったようである。

8.シンポジウム①:ふるさと館山松岡の偉人・福原有信を語るつどい

「資生堂」創業者・福原有信が旧松岡村(館山市竜岡)の生まれだということは、NPOフォーラムの活動に参加して初めて知った。松岡八幡神社の鳥居には「明治四十四年 福原有信」の奉納を示す文字が刻まれ、関東厄除け三大師である遍智院小塚大師には先祖代々を祀った「福原之墓」がある。前日からの記録的大雪であったにもかかわらず、午前中の現地見学会には約40人、午後のシンポジウムには資生堂企業資料館の佐藤朝美氏を講師に招き約200人が参加した。

祖父が漢方医で幼い頃から薬草に親しみ、医者を志して上京するも、西洋医学を学び医薬分業を提唱して日本初の西洋調剤薬局を起こした。それが資生堂の原点である。佐藤氏の副題にあるように、「人びとの幸福と健康のために」という願いをこめて起業し、その精神は今なお資生堂に受け継がれ、人の肌と地球にやさしい製品づくりの理念に生きているという。

起業したのは資生堂ばかりでなく、「帝国生命保険会社」を設立し経営に尽力している。帝国水難救済会布良救難所の看守長であった前述の小谷家から見つかった書状では、遭難遺族を救済するために福原の帝国生命保険と提携して互助制度を整えることを奨励する旨が記されており、実際に布良同盟保険なるものが明治期に組織されている。

このようにふるさとに対する想いは深く、水産業はじめ明治の殖産興業化が進むなか、同郷の衆議院議員・小原金治や安房郡長・吉田謹爾らともに安房銀行の設立にも寄与している。一方、長女とりは館山病院の初代院長・川名博夫に嫁ぎ、四女美枝は渋沢栄一の次男に嫁いでおり、渋沢は東京の虚弱児童の療養地として東京養育院安房分院を館山に開き、渋沢が渡米する際には川名の女婿で館山病院二代目院長の穂坂与明が随行している。関東大震災で壊滅した館山病院の再建にも尽力し、転地療養のサナトリウムとなる館山病院の東京窓口は銀座資生堂となる。地域からは想像できない政治経済ネットワークが展開していたことが推察される。

第二部では松岡の皆さんが登壇し、「福原の生き方を学び、地域の誇りとして次世代に語り継ぎたい」「館山市木は椿であり、資生堂のロゴマークは花椿という共通点もあるので、資生堂の推進する社会貢献プロジェクト『椿の森プロジェクト』を誘致して、福原のふるさとを椿の花でいっぱいにしたい」などと、まちづくりに向けた発言があった。不思議な縁が続くもので、館山には世界的な椿研究者であった小原謹治の椿の里があり、翌日の現地見学会が予告された。これもNPOフォーラムが仕掛ける「館山まるごと博物館」の手法が生きた魅力をつくりだしている。

9.シンポジウム②館山まるごと博物館

前日のシンポジウムに続き、椿の里・小原家住宅の現地見学会には約70人、午後のシンポジウムには約60人が参加した。福原の盟友であった小原金治とその先代が1860(安政6)年に建てた、築160年の旧家である。敷地内には母屋のほか、離れ1棟と石蔵2棟などがのこる文化遺産である。2005年に館山の戦跡で撮影された香川京子の主演映画『赤い鯨と白い蛇』の舞台として、小原家住宅の離れが登場する。

小原金治と同じ氏名の読みになる孫の小原謹治は、700種類の椿を育てて、10種類以上の新種を作り出した椿の栽培家である。なかでも「K・オハラ」と命名された椿は、アメリカの権威ある「椿」雑誌の表紙を飾っていることから、椿の品種改良では世界的な人物であった。1971年に館山市木が椿に制定され、その後、小学校の入学式や成人式のお祝いに小原家の苗木が配られた時代もあったという。小原家は、歴史建物も庭園もまさに「まるごと博物館」である。現在、謹治の姪でNPOフォーラム会員の村上吉夫・信子夫妻が懇親会などでは快く自宅庭園を開放してくれている。

午後のシンポジウムでは、エコミュージアム研究の第一人者で横浜国立大学大学院教授の大原一興先生の基調講演から始まった。「各地でエコミュージアム(地域まるごと博物館)の取り組みが広がるなか、その理念が十分に理解されているとはいえない。文化財の保存・活用を単なる観光利用に捉えるのではなく、地域社会を築いてきた先人たちの生活文化の歴史をきちんと学び、その精神や知恵を知ったうえで今の地域づくりに活かし、その主体となる市民を育てていくことが大切」とした上で、「館山まるごと博物館は活動に関わる人びとがその考え方をよく理解しており、日本を代表する先進事例といえる」と述べられた。これは活動に参加する私たちメンバーにとって、このうえない励ましのエールとなった。それだけでなく、大原先生が顧問を務める「三浦半島まるごと博物館」プロジェクトには、資生堂の福原義春名誉会長が関わっていると紹介されたが、この方は福原有信の孫である。前日に顕彰したばかりであり、ぜひ「館山まるごと博物館」にもご理解をいただき縁をつないでいきたいと思う。

第二部では、それぞれ専門家から「館山まるごと博物館」の実践とその評価が報告された。千葉県立中央博物館学芸員の林浩二氏からは、国際学会による博物館の定義が変わってきたことが紹介された。従来の建物内に文化財を収集・研究・展示するだけでなく、地域全体にある有形無形の文化遺産全てを取り扱う機能をもったところが博物館という。韓国人研究者で神奈川大学特別助手の鄭一止(チョン・イルジ)先生は、東京大学大学院の留学生として「館山まるごと博物館」を対象として博士論文を書いてくださっており、「館山まるごと博物館は活動に関わる市民研究員の層が厚く、市域資源の点と点が線になり、さらに面へと広がっていく展開は国際的にも通用するまちづくり事例である」と報告された。館山市教育委員会生涯学習課文化財係長の杉江敬氏は、歴史資源等を活かした平和・学習拠点のあり方として、館山市では「地域まるごとオープンエアーミュージアム・館山歴史公園都市」を目標像に描いていることを紹介し、市民力と連携した活動実践を報告した。最後にNPOフォーラムの愛沢伸雄代表(千葉大学教育学部講師)は、「『館山まるごと博物館』は、今に生きる私たち市民の誇りを育んでくれるだけでなく、持続可能な地域づくりのヒントも与えてくれている。他地域との連携による広域まるごと博物館の交流をさらに深め、豊かな教育と観光雇用を増やすことにも寄与していきたい」と語った。

エコミュージアムとして展開をする上で、「伝え合うこと」「教え教わること」「つながること」が重要であり、人間関係が希薄になった現代の地域社会において、文化遺産という切り口を使って新たなコミュニティが形成できるのかもしれないと感じた。

10.むすび

2012年夏、館山市の渚の博物館(館山市立博物館分館)において、青木繁が『海の幸』を描いた小谷家住宅を修復して後世にのこしたいと願う全国の画家たちによって、基金を募るチャリティ展覧会である青木繁「海の幸」オマージュ展が開催された。このときに絵画のほか、資料展示もされ館山市立図書館が「青木繁『海の幸』特設コーナー」をおいた。館山市教育委員会が共催であることで、オマージュ展と図書館とが連携して、青木繁に関する本のリストや利用案内を紹介するコーナーがつくられた。来場者が「青木繁をもっと知りたい」と興味・関心をもったときに、資料のある施設の情報は、市民に対して地域文化を知らせていく活動として大切である。逆に、図書館に設置したオマージュ展情報コーナーがあることで、興味・関心をもつ市民がオマージュ展を見学することになるだろう。

戦跡などの文化財をまちづくりに活用していくためには、市民が知的関心を高めていく必要がある。館山市立図書館の郷土資料コーナーには戦跡や里見氏関連に関わるNPOフォーラムなどの書籍もあり、地域の歴史や文化遺産のことに興味・関心をもった市民にとって、充実した仕掛けをもっている場所である。この取り組みを通じて「もっと知りたい」が、やがて「このまちが好き」になり、文化遺産を「のこしたい」「伝えたい」という思いにつながっていく可能性がある。このような「ちょっとした仕掛け」なら、私にもアイデアがあり実践できるかもしれない。

さて、壊されゆく戦跡や里見氏城跡を守ろうという市民の文化財保存運動に端を発する「館山まるごと博物館」は足かけ四半世紀となる。価値がないと思われていたものも市民の声により価値が認められれば、赤山地下壕跡は館山市指定史跡となり、里見氏稲村城跡と岡本城跡は、里見氏城跡群として国指定史跡となった。青木繁《海の幸》誕生の小谷家住宅では、個人住宅が館山市指定文化財と認められ、その保存修復費用を市民と全国の美術家が募り、自治体は目的を指定した寄付が税控除の対象となるように「館山市ふるさと納税」を整備した。

NPOフォーラムの提案により館山市保健推進協議会との協働で始まった郷土の食文化研究「おらがごっつお(我が家のご馳走)」は、数冊のレシピ集となって発展している。ヘリテージまちづくり講座を通して、「館山まるごと博物館」実践を見つめ直してみると、文化遺産を活かした地域づくりに市民と行政が手をつなぎ、ともに展開していることに改めて気づく。

「館山まるごと博物館」の取り組みは、国際的な広がりもある。NPOフォーラムの市民研究員が掘り起こした戦跡と渡米したアワビ漁師の交流史の調査研究から、「戦後60年」の日米平和の交流イベントが行われてきた。千葉県有形文化財であるハングル「四面石塔」を活かした日韓交流では、お互いの歴史認識と向き合いながら子ども交流や、青少年歴史体験キャンプを開催してきた。昨年は、韓国政府の外郭団体である韓国文化観光院の視察団が来訪し、先人たちが培った「平和・交流・共生」精神をもって市民の立場からまちづくりの取り組んできたに実践活動に強い印象を残したと聞く。

ところで、文化遺産は、「学びたい」「伝えたい」と願っている人びとを集める魅力をもっている。「学びたい」「伝えたい」と実践する人びとは、人生のなかで疑問や悩みを解決していく力も身につけ、住民が自信と誇りを取り戻していくはずである。その地域コミュニティの人びとが笑顔や元気になっていく仕掛けが「ヘリテージまちづくり」ではないかと思っている。

私は、旅行先の各地で出会ったガイドの方々が誇らしげに地域の魅力を語る姿に感動したことがきっかけとなって、今の活動に参加している。同じように、館山を訪れた人びとが「館山まるごと博物館」からヒントを持ち帰り、それぞれの地域で足もとを見つめ直し、文化遺産を活かしたまちづくりが波及していったら嬉しいことである。この間、私はNPOフォーラムの活動を通じて、身近にある「医療」と「図書館」に文化的価値があるということに改めて気づくことができた。とくにこの一年は、多様な図書館にかかわり、学ぶことが多かった。NPO法人全国生涯学習まちづくり協会主催の「まちづくりコーディネーター養成講座」参加を契機として、第15回図書館総合展のフォーラム「図書館がまちを変える~まちづくり活動の拠点としての多機能図書館のあり方を考える」や、千葉県酒々井町の「輝く創年とコミュニティ・フォーラム」に参加した。

図書館とは「居場所」「人が集う場所」「疑問や悩みを解決できる場所」ということを学びながら、それは文化遺産を活かしたまちづくりも同じなのではないかと思った。ヘリテージまちづくり講座を通して、私の仕事は「文化的価値あるもの」を「保存」「活用」していると再認識し、自分の職業に誇りをもつことができたのは大きな収穫であった。これからもライフワークとして、私はこの2つのキーワードから調査を深め、「館山まるごと博物館」の実践に寄与できたら幸いと思っている。