藤田嗣治

藤田嗣治(ふじたつぐはる)

(1886-1968)

画家、彫刻家。猫と女性を画題にした作品を多く残し、特に独特の手法を使って描いた「乳白色の肌」と呼ばれた裸婦像は西洋画壇から絶賛された。フランスで最も有名な日本人画家といわれている。子供の頃から絵に興味を持ち、東京美術学校(現・東京芸術大学)の西洋画科を卒業後、念願だったフランスに渡る。日本にはない新しい絵画に触れた藤田はやがて透明感あふれる独特な画風を確立、作品はしだいに評価を高め、フランスの美術展覧会「サロン・ドートンヌ」の審査員に推挙されるまでになった。女性画を得意とした藤田の作品でも特に『Nu couché à la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)』と題される作品はサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こすほどの話題作となった。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られ、もはやフランスで藤田の名を知らぬ者はいないほどにまで成功を収めた。第二次世界大戦勃発を受け日本に帰国、戦時中はやむなく戦争画も手がけたが、戦後、再びフランスへ戻り1955年にはフランス国籍を取得した。1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。ちなみに藤田には4度の離婚暦があり、最期を看取った君代は25歳年下の5度目の妻。

震災前の北条仲町を、現在の消防署前から南町の交差点に向かって撮った町並の様子です。長尾藩士藤田嗣章(つぐあきら)は、明治元年から大正11年に東京大久保町に転籍するまでの約半世紀間、写真の九軒先に本籍を置いていました。その嗣章の子が、日本の代表的な洋画家藤田嗣治(つぐはる)です。

嗣治は、明治19年、父の仕事の都合で東京に生まれましたが、出生届は北条村に出されました。大正2年、嗣治は本格的に絵を勉強するためフランスに渡り、その後、サロン・ドートンヌに出品し続け、一躍パリ画壇の注目を集めるようになり、大正10年には、その審査員となるほど大いに活躍しました。

大正11年、第四回帝展のとき、旧師和田英作の勧めで、初めて「わが室内」を出品しました。しかし、帝展審査員は一般出品者扱いとしたため、留守宅の父嗣章は腹を立て、文部省の帝展幹部に対し、「フランス・サロン・ドートンヌの審査員がなぜ日本の審査員に鑑別されるのか」と出品の撤回を申し入れたと伝えられます。これをパリで伝え聞いた嗣治は、自分の作品に慈愛をかける父に深く感謝し、「自分の最大の恩人は父である」と終生語ったといわれます。

嗣治の父嗣章は、後に陸軍軍医総監をつとめ、明治天皇の侍医頭にまでなっています。藤田家は、明治元年に静岡の藤枝から来た長尾藩士の家系で、嗣章が大正十一年まで本籍を北条に置き続けたのは、度重なる転居に大きな理由があると考えられますが、藩の終焉の地、房州館山への愛着もはたらいていたと思われます。