安房地域の歴史的特性
● 歴史的な役割を果たしてきた房総半島南端の地
安房地域は気候に恵まれた半島性のもとで、海や山など豊かな自然環境を育んできたことから花・食・里山・黒潮など、第1次産業に関わる地域イメージのみで語られることが多かった。
ところが歴史的文化的な視点からみると、房総半島南端部は日本列島のほぼ中心部にあって、関東地域を背後に太平洋世界に突き出た半島に関わり、太平洋世界(黒潮)の豊かな海洋文化を営みながら、交流をすすめてきた地域であった。なお、関東のなかの中心的な位置を占め、政権のあった鎌倉・江戸・東京にとっては、江戸(東京)湾の入口に位置する安房は、古代より戦略的な要衝の地であった。
房総半島南端部は地理的にどんな特性をもった地域といえるか。降雨や気温には海洋性の気候の影響を受け、台風などの通過が多いので一時的な豪雨などの地域的な特性をもつ。そのなかで気候的な特性や植生上の特性を活かした農業形態や花づくり、また黒潮と親潮の潮目をもった世界4大漁場のひとつであった漁業の歴史、さらに古代よりアワビ・海藻など豊かな磯根漁業が地域に根ざしておこなわれてきた。
また地学的には環太平洋造山帯に位置し、世界的にも地震の多発地帯で、日本海溝が近く太平洋プレートの移動で、現在も日本で一番隆起している半島部である。
さて歴史的な特性をもった地域であると前述したが、日本列島の中央部にあったことで、古代より中央政権や地域支配者にとって地政的に房総半島の役割が大きいと認識していた場所であった。古代から中世・近世において、列島の中央部にある関東地域の支配は、江戸(東京)湾と房総半島湾岸部などの要衝を押さえることによって、戦略上はもとより、漁業や海上交易において中央政権や地域支配者が関心をもった重要な地域といえた。
その事例として、大寺山舟葬墓埋葬者・翁作古墳埋葬者、景行天皇伝承・忌部・高橋・平忠常・頼朝・北条・足利・里見・正木・後北条・秀吉・家康などとの関わりをあげることができる。また幕末からアジア太平洋戦争まで対外政策や軍事戦略上では、房総半島南端部が江戸(東京)湾口部であったことで、深く中央政権と直結していた。幕末の砲台・台場・明治期よりの東京湾要塞砲台群・館山海軍航空隊などの軍事施設・本土決戦陣地関係・米占領軍上陸地などはそれを明示している。
● 「平和・交流・共生」の地域コミュニティの理念を育んだ歴史的な特性
安房の人びとは歴史的には、どんな生活文化や理念を育んできたといえるか。まず指摘したいことは、地域を舞台にした戦乱や戦争、そして地震・津波・台風などの自然災害、海の暮らしのなかでの遭難など、個人の力ではどうすることもできない困難な状況が100〜200年のサイクルでおそってきたものの、地域で暮らす人びとはそれを乗り越えていったということである。
そこには、嶺岡山系周辺の「地すべり」という自然災害をも利用した「棚田」農業や魚と格闘しながら獲物を得る「突きん棒」漁法、さらには自力で海に潜って魚介類の採取や農業や花作りに活かした海藻採集など磯根漁業など、労働用具などが例え不備であったとしても、伝承されてきた知恵などを身に付けて、生活を支えてきた姿をみることができる。
その際に豊かな地域コミュニティをつくって、励まし合い助け合いながら先人たちは自らの確かな知恵がいかされる生活文化を育んできたのであった。また、中央政権の意図的政策によって、あるいは戦乱や災害によって、地域の文化財や古文書が失われてきたものの、たとえば地域の伝承として、あるいは寺子屋などの「教育」という形を取りながら、地域の人びとの思いや願いは確実に子どもたちに受け継がれていったのである。
こうして中央政権での戦乱や自然災害が多かったこの地は、人々によって「平和や友好を求める交流」の地となり、漁民たちの寄留の地として、また商人たちの交易地として、さらには太平洋世界から漂着した人びとの平安の地として、実り豊かな地域生活と文化が育まれていたと思われるのである。その結果、地域文化の拠点として神社・仏閣は再建され、そのなかで祭りや民俗伝承という形で豊かな地域コミュニティ社会を生みだし、子どもたちの「教育」の場がつくられていった。
いま先人たちが育んできた「平和・交流・共生」の地域コミュニティの理念を学びながら、地域の歴史的な特性を活かす生活文化を再生していくことが求められている。なかでも安房の人びとの地域コミュニティの理念は、戦乱や災害などを乗り越えていった人びとのエネルギーの源泉であったことを明らかにして、私たちはそこから教訓を導くことが重要と思われる。とりわけ地域の「教育」の力が歴史的に大きな役割を果たしてきたことを強調したい。
● 近現代史のなかの地域〜東京湾要塞・「15年戦争」・本土決戦・「直接軍政」
19世紀以降、房総半島南端部や江戸湾は海防政策上大きな関心が払われ、お台場などが建設された。明治に入って、房総半島は自由民権運動やキリスト教伝道面で人々の交流が活発な時期もあったが、「富国強兵」のスローガンのなかで国家防衛の面から沿岸要塞建設がすすめられ、とくに日清・日露戦争前後から房総半島・三浦半島など東京湾沿岸は、軍事戦略上に最重要地域として位置付けられていった。
とくに東京湾口部であり、帝都と横須賀軍港防衛の最前線として、特別な役割を担った南房総・安房は、日本近現代史と深く関わる歴史的な特性をもった地域になっていった。1880(明治13)年、東京湾に侵入する敵艦船の航行を阻止するために、当時最高の建設・軍事技術によって東京湾口部の要塞建設が開始され、その後半世紀にわたって莫大な軍事費を注ぎ込んで、32(昭和7)年に「東京湾要塞」は完成した。当時の産業技術の粋を集めた要塞建設は、国民の目を隠した国家機密の塊であった。
20世紀前半の安房の地域史は、まさに「戦争の世紀」であったことを多くの戦争遺跡が示している。東京湾要塞地帯として、「15年戦争」-日中戦争・アジア太平洋戦争の軍事拠点として、館山海軍航空隊や館山海軍砲術学校、そして洲ノ埼海軍航空隊などさまざまな軍事施設が設置され、なかでも「陸の空母」と呼ばれた館山航空基地は、軍事戦略上「15年戦争」のスタート時中国をはじめアジア侵略の最前線航空基地として特別な役割を担っていたのである。中国の人々に対する無差別都市爆撃としての「渡洋爆撃」ひとつ上げても、アジア侵略という歴史的事実が地域の戦争遺跡を通じて知ることができ、安房の代表的な戦争遺跡である赤山地下壕建設もその頃の航空戦略に基づいていると推測されるのである。
そして戦争末期の「沖縄戦」のなかで、南房総・安房は「国体護持」帝都防衛(「松代大本営」建設)のかけ声のもと、「本土決戦」態勢が敷かれ、陸海軍のさまざまな特攻基地やアメリカ軍上陸を想定して、7万人近い部隊を配置した。この地の住民たちも「一億総玉砕」体制のなかで軍隊の盾になるように仕向けられた陣地づくりに動員され、そして敗戦をむかえたのであった。
1945年9月2日、降伏文書が戦艦ミズーリ号で調印されると、翌日館山海軍航空隊の一角には、アメリカ陸軍第8軍が占領軍として本土に初上陸し、わずか4日間ではあったが、沖縄以外では唯一の「直接軍政」が敷かれた都市となったのである。ここから戦後日本のスタートをきっったことは意外に知られていない。
● 地域の戦争遺跡から「平和・交流・共生」を学ぶ
安房の戦争遺跡には、軍事施設跡を中心に、近現代日本の歩みをさぐるうえでも貴重なものが多い。なかでも「15年戦争」スタート時の航空戦略では最前線基地であったり、対米英戦のなかでもアジア侵略への拠点として関わっていた地域であることを忘れてはならない。それは沖縄や松代、そして広島・長崎にいたっていく歴史的事実をより鮮明にしていくためにも、近現代史において、南房総・安房地域がどんな役割を担ってアジア侵略に突き進んでいったか、その事実が明らかにしていくことがいま重要といえる。
この地の戦争遺跡が「生き証人」として、地域の視点から加害・被害などの歴史的事実や戦争の無意味さを知らせ、日本やアジアの人々が戦争遺跡を通じて「平和・交流・共生」の意識を心に育んでいくことを願っている。
戦前戦中に東京湾要塞地帯に暮らす地域の人びとが、どんな思いをもって、この地で生きていたか、あるいは東京湾要塞やアジア太平洋戦争に関わった加害の歴史的事実を伝えるさまざまな戦争遺跡のなかで、地域に生きる人びとがどう戦争と向き合っていたか、そのなかで願っていた平和意識とはどのようなものであったかを探ってみたい。軍国主義という国家支配のもとで、戦時中地域の人びとが「花作り禁止」を命じられたり、子どもたちが極秘に軍事品「ウミホタル」を採集させられたり、戦争そのものが庶民の生活や教育を破壊していった姿をアジアの人々に知ってもらう努力が必要であろう。そのことがこの地から「平和・交流・共生」の理念を広げ、地域からの国際的な平和活動になっていく契機になっているはずである。
世界遺産条約は、世界の人々が異なる歴史や文化をお互い尊重し学び理解するなかで世界の平和発展の礎にしていこうという理念をもっている。いま21世紀に入り、戦争体験がない親たちがほとんどとなり、そのもとで育った子どもたちに対して「戦争や平和」をどう語り継いでいったらよいかが問われている。戦争体験の風化がすすみ、「平和の語り部」が数少なくなっただけに、そのなかで戦争遺跡は「生き証人」として、その存在をして「戦争と平和」を語らしめる未来への遺産にしたいものである。