済州海女と軍事物資カジメ・アラメ

●済州島からの朝鮮人海女と軍需物資「カジメ・アラメ」●

カジメとアラメは外海性岩礁に育成する大型の多年草海藻で褐藻類である。明治初期までは主に肥料として使われていたが、明治20年代に入って海藻灰ヨード工業がおこると、その工業原料として大量に用いられた。生産量は年々増加し1904、5年の日露戦争中に急増したことで、1908年(明治41)森為吉らは房総の粗製ヨード製造業者を合同して「総房水産(株)」を設立した。1914年(大正3)第1次世界大戦中にカジメ生産量が最高になったのも、敵国ドイツよりの医薬品輸入がストップしたことで、ヨードや塩化カリなどの国内生産が求められからであった。

1926年(大正15)森は日本沃度(株)を設立しヨードの製造やヨードを主とする医薬品の製造をおこない、自社製の塩化カリを原料として硝石をつくり、陸軍造兵廠へ納入した。27年に樺太沃度合資会社、翌年【朝鮮沃度(株)】が“済州島”を中心に開設されるが、世界恐慌の波及でヨード業界は不況になる。そして1931年満州事変が始まり、軍需が増大しカジメ生産が上昇していく。

しかし1934年(昭和9)ころ、天然ガス鹹水ヨード工業がおこったので、カジメ生産量は減少していくことになる。ところで磯根漁業はカジメ・アラメの採集だけでなくアワビ採捕が中心になる。アワビはカジメ・アラメを餌とする食物連鎖上の高次動物の一種である。しかしアワビは軍需物資の条件に乏しかった。

1941年(昭和16)8月2日付け「カジメ採集ニ関スル件」のなかで「決死的御協力ニ依リ其責任数量確保ニ萬全ヲ期シ国家ノ使命・・緊迫セル時局下ニ於ケル国策遂行ニ協力」とカジメ採集の供出責任数量を各漁協に割り当てている。そして、千葉県経済部長から漁業協同組合長にあてた文書には「カジメの供出が高度国防国家建設に寄与する処大なるを貴組合員に周知せしめ当分の間カジメの採取、集荷に専念せしめられ度此段重ねて及通牒候也」と述べられている。

さらに8月16日付けで乾燥したカジメ・アラメは軍部の指示で「昭和電工株式会社ニ荷渡ス事」と通知された。この昭和電工(株)は前述の日本沃度(株)が日本電気工業(株)と改称後、1939年昭和肥料(株)と合併して設立された、陸海軍指定工場で、41年当時には千葉県内には興津工場(ヨード・ヨードカリ・塩化カリの製造)・館山工場(ヨード・塩化カリ・カリ肥料・食塩を製造)があった。

ところで両工場では、乾燥カジメ・アラメを焼いて海藻灰(ヨード灰=ケルプ)からヨードを製造していた。供出品の水分や砂分を規定し、乾燥その他についても工場側に有利な取扱いであった。アワビなどを差し置いてカジメの採集、集荷に専念することが国策として求められた。1943年6月4日の「朝日新聞」千葉版には、「カリを多量に含む海藻が軍需資源として極めて重要であるに顧み商工省では陸海軍、農林、企画院の各省および全漁連、カリ塩対策協議会と協力し全国の漁民を総動員して海藻採取の大運動を展開している」の記事が見られる。

このように海藻灰ヨード工業は戦争と深いかかわりがある。化学薬品のヨードは医薬品をつくる軍需物資であるとともに、このヨード原料の海藻カジメ・アラメが「火薬」原料という極めて高度の軍事戦略物資であったことを忘れてはならない。と同時に“朝鮮の済州島から来た海女たち”が、このカジメ・アラメ採集に深くかわっていることを指摘したい。